マイナスの矛盾定義
今だけは、この子を敵組織の人間じゃなく、1人の愛されなかった子供として接しよう。


慈しむように撫でていよう。




願わくは――いつかこの子が、私の言えないことに、自分で気が付きますように。
朝の仕事部屋。ガラス張りのこの部屋から見下ろすと、出勤中の人が多くなってきたことが分かる。


私がこんな状況だというのに外の世界は変わらず進み続けていると思うと、溜め息を吐きたくなった。




「これはどういう事なんです?」



怖いくらいの無表情をしたブラッドさんの視線の先には、私とラスティ君を繋ぐシルバーの手枷。



「うん、だからね?昨夜ニーナちゃんがいなかったから…」


「勝手なことをするなと常日頃から言っているつもりですが?」


「もー、そんな怒んないでよ。ぶらりんが心配するようなことはしてないし~」


「それは当然です。とにかく今後こういうことは慎んで…」


「やだ。」


「は?」


「やだやだやだ。アリスちゃんは僕と寝るの」



駄々をこねるように私にもたれ掛かってくるラスティ君は、今朝からずっと様子が可笑しい。


幼児退行しているとしか思えない。いつもと態度が違いすぎる。
「お前…ラスティまで手懐けたのかよ」



訝しげな眼差しをこちらへ向けてくるのは、いつもの如くソファベッドに寝転がっているアランで。


今日はいつも以上に眠たいのか欠伸ばかりしている。



「別に手懐けたってわけじゃないわよ」


「どうだか。…あー、ねみ」


「寝不足なの?」


「……誰のせいだと思ってんだ」


「は?」


「何でもねぇよ。ラスティ、いい加減その手枷外せ」


「やーだー」



アランに言われても外そうとしないラスティ君に、ブラッドさんは眉を寄せた。



「嫌でも外してもらわないと困ります。今日はアリスに客が来ているので」


「えー何それ。断れないの?」


「政府から派遣された人物です。1度顔合わせだけでもしておくべきでしょう」



ブラッドさんの言葉にラスティ君は少し目を細め、


「あぁ…なるほどね」


クスリといつもの不気味な笑みを浮かべる。



「じゃあ仕方ないか~」



ニヤニヤしながらそう言って、包帯の巻かれた片方の手でポケットから鍵を取り出し、あっさりと手枷を外すラスティ君。


さっきまで一向に離れようとしなかったのに…。


この何かを企んでいるような底気味悪い感じがラスティ君らしく、何故か逆に安心してしまった。
政府から、ねぇ…私にとって良い人物でないことは確かだ。


いつまでも安全ではいられない。


あの研究の関係者は、唯一の不老不死の個体である私を放ってはおかないだろう。



早い段階でここから逃げないと――。



「アリス、こっち来い」



私の思考を遮るように、アランがソファベッドから気怠げな声で私を呼んだ。



何よ、こっちはここから逃げる手段を考えてるだけで忙しいのに…とは言えないから、大人しく近付く――と、


「う、わっ…」


ぐいっと腰を引っ張られ、アランの上に倒れかかってしまった。



起き上がろうとするけれど、腰に回された手の力が強くてできない。


もう片方の手が後頭部に回り、アランの胸に顔を埋める形になってしまった。


服の匂いなのかアラン自身の匂いなのかは分からないけれど、とにかく良い匂いがする。


回された腕の力強さを感じて妙に緊張してしまう。


強引にも程があるわね、こいつ…。



「いきなり何なのよ。離してくれる?」


「るっせ。寝るから黙ってろ」


「…は?このまま?」


「あー、お前抱き心地良いわ。今日は俺の抱き枕な」



人を物扱いしてんじゃないわよ。
「ちょっとー、アリスちゃんは僕の抱き枕だよ?」



ラスティ君もラスティ君で物扱いだし。



「誰の許可を得てそんなことを言っているんです?」



また面倒なのが食いついてくるし。



この3人は本当に扱いづらい。


アランに身動きを封じられたままってのが癪だけど、こういう時は面倒なことになる前に別の話をするのが得策だろう。



「政府からの人間、ってどういうことなの?」



視線だけをブラッドさんの方へ向けてそう問えば、ブラッドさんは難しい顔をして黙り込んだ。


言いにくいのかしら?大体見当はついてるし、言うのを躊躇う必要なんてないのに。



「マーメイドプランの関係者の1人だよ。政府はアリスちゃんを僕らから回収しようとしてる」



代わりにラスティ君が私の問いに答え、ブラッドさんはラスティ君を軽く睨んだ後、私を見て難しい顔のまま言った。



「君にとっては辛い面会になるかもしれません。でも、少しの間だけ我慢してください。君への直接的な危害は絶対に加えさせませんから。アランとニーナには必ず君の傍にいてもらいます」



――はァ?


笑っちゃうわね。何が危害は加えさせない、よ。


この組織にいる時点で十分危険なのに。



分かってる。全てがブラッドさんの所為というわけじゃない。


でも、毒を吐かずにはいられない。



「貴方って、結局私のことなんか少しも考えてないわよね」


「…どういう意味です?俺はいつも、」


「私のことを考えてるって?本当にそうかしら。もしそうなら、今すぐにでも私を釈放するはずじゃない?私に政府との繋がりを持たせて、危険に晒す立場にいるって自覚あるの?」
自分でも自分の声がやけに冷たいように思えた。


私はこのどうしようもない状況に腹を立てていて、やるせない思いを他人にぶつけようとしている。


ブラッドさんを非難したって何も解決しないのに。



「私を手っ取り早く自分の傍に置きたいだけでしょう。危険に晒してでも」


「……」


「そうでないなら、私が好きだからと言ってこんな場所に連れてくるはずがないわ。私のためを思うなら、たとえ好きだとしても、私を安全な場所にいさせたうえで組織を辞めて私に会いに来るはずよ」


「……」


「貴方は私のことを考えているわけじゃないわ」


「……そうか…」


「…は?」


「そうですね。今、理解しました」



独り言のようにぽつりと言葉を吐き出すブラッドさんは、少し考えるような素振りをした後、1人納得したように頷いた。



「俺は、確かに君のことばかり考えているわけじゃない」




それから、私の方を真っ直ぐに見て。



「俺はこの組織が大切なんです」
微塵も怒っていない様子で、それどころか何故か少し嬉しそうに微笑んで。



「君の言う通りだ。君に近付きたいなら、リバディーを辞めれば良かった。でも、俺はそうしなかった。そんな選択を思い付きもしなかった。…俺は案外、この組織が好きらしい」



まるで新しい発見をした研究者かのように言うブラッドさんのその反応は、私の予想を大きく上回る物だった。



「君はいつも俺の気付かないことを教えてくれる」



ちょっと…論点がずれてるんだけど?


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