マイナスの矛盾定義
陽のとっさの受け身もさすがというか、口では痛いと言っているけれども、あまりダメージは受けていないように見受けられる。
「指揮官クラスの人間が、堂々とこんな場所で機密事項をベラベラ喋ってんじゃねぇよ。消されんぞ」



アランの低く冷たい声音には威圧感があり、手が自由になっているにも関わらず私は一瞬逃げることを忘れた。



しかしそれも一瞬のことで、次の瞬間には私の足は店の出口へ向かって動き出していた。


ハンバーガーを咥えたまま、全速力で走る。



「チッ…お前が余計なこと言うから逃げただろうが」


「えー、俺のせいすか?俺を黙らせる為とはいえ、手ぇ離したのはアランさんじゃないっすか」



後方からアランの厄介そうな声と陽の不服そうな声が聞こえるが、もちろん無視。



でも、まさかこんな場所で逃げる機会ができるとは思わなかったから無策だ。


まともに走ってアランに勝てるとは思えない。


かと言って隠れる場所もない。


隠れられたとしても、エレベーターさえ見張られていれば逃げ道はない。


私が把握している限りでは、この階に人が出られるようなサイズの窓はない。


食堂にはガラス張りの場所があるけれど、そう簡単に割れるようなつくりでもないだろう。
となると――一か八か、このまま走ってエレベーターへ乗り込もう。


アランはまだ動き出していなかったし、距離はある。


エレベーターに乗って1階まで行ってしまえばあとは受け付けだけだ。


前みたいにエレベーターを止められる可能性もあるけど、あれは確か許可制だったはずだ。


エリックさんに許可を得るまでの時間はあるはず。


その前に1階に着くことができれば――私はエレベーターの【1】のボタンを押し、ドアが開くのを待つ。


幸いにも利用者はいないようで、少ししてすぐにドアが開き始めた。


中へ駆け込み、【閉】のボタンを押した――のと、いつの間にか背後に迫っていたアランが私をエレベーターの壁に押し付けたのは、ほぼ同時だった。



「何で俺がお前を離したか分かるか?捕まえる自信があったからだよ、馬鹿が」



相当足が速いのであろうアランは、ニヤリと得意げな顔で私を見下ろした。


まぁ、そう簡単に逃げられるとも思ってなかったけど……。
抵抗しようにも、既にアランの手がガッツリ私の手を拘束していた。


……仕方ない。あの研究の関係者に会うのは免れないみたいだ。



「もう乗っちまったし、戻るのも面倒だな。このまま1階行くか」



アランがポケットから手錠を出して私の手にかけるのを、私は黙って見ていた。


別にいい。手が使いづらくてもハンバーガーは食べられるし…と思って再び食し始めると、それを見たアランがふはっと笑う。



「食い意地張ってんなぁ」


「悪い?」


「いや、可愛い」




「………あ、そう」



しまった。今のは少したじろいでしまった。


アランの“可愛い”のツボはどうかしていると思うのは私だけかしら…。


ほんの一瞬視線を逸らした私を見逃さなかったようで、アランは悪戯っ子みたいにくっくっと笑った。



「俺の勝ち」



何の勝負よ…。



まぁ、何にせよアランに負けるというのは私のプライドが許さない。



「貴方もかっこよかったと思うわよ?陽へのはなかなか良い蹴りだったわ。銃にばかり頼ってる腰抜けじゃなかったのね」


「あん?」



私の嫌味に少し機嫌を悪くしたらしいアランは、私の足に足を引っかけ、あっという間に床に倒してしまった。



「なんなら俺の技1つ1つお見舞いしてやってもいいんだぞ?」



この状態で言うと意味が違ってくる気がするのだけど…。
倒し方にも色々あるのだろうが、背中が全く痛くない。


私自身、口では嫌味を言ってはいるものの、アランの能力面に関してはそれなりに評価している。


本気で喧嘩じみたことをしているところは見たことがないけれど、やはり優秀組のメンバーだし、武器を使わなくても十分戦えるだけの能力はあるのだろう。


今になって思う。


私にもこいつと互角に張り合えるレベルの能力があればと。


私はスパイとして半人前だ。


こういう状況に陥ってもすぐ対処し逃げられる、そういうのがシャロンの求める人材だろう。私はまだ彼が必要とするような人間に追いつけていない。




と、その時、うぃーんとエレベーターのドアが開いた。
1階に到着したようだ。


視線を感じて見上げると、エレベーターの外に立つニーナちゃんがハッとしたように私から目を逸らす。



「……申し訳ありません。お客様がいらっしゃったのでこちらから迎えに行こうかと思っていたのですが…お取り込み中でしたか」


「違うわよ…」



勘違いをしていらっしゃる。


確かに誤解される体勢ではあるけど、さすがのアランもエレベーターの中で女の子に手を出すなんてことしない……はずだ。
「あぁ、もう来てんのか」



あっけらかんとしているアランは、私の腕を引っ張って立ち上がらせた。


ニーナちゃんに付いていくようにしてエレベーターを出ると、ふと玄関が目に入る。


玄関が見える範囲にあるというのに外へ出られないことが歯がゆい。



見慣れない女性が立つ受け付けのカウンターの前を通り過ぎ、その奥の部屋へと移動する。


やけに分厚そうな壁だ。勿論外から中の様子は見えないし、中の音が聞こえるようにも見えない。


ニーナちゃんが「お待たせしました」と部屋のドアを開け、アランと私が入っていく。


その後からニーナちゃんも部屋へ入り、ドアを閉めた。


それと同時に鍵が自動で閉まる音がする。


重要なお客様が来た時に備えて、邪魔が入らないような造りになっているのだろう。



室内には控えめな香水らしき匂いが漂っている。


その匂いの持ち主であろう彼女は、奥側の椅子に座っていた。


肩より10センチほど長い内巻きの黒髪の、細身の中性的な顔立ちをした女性。


年齢は外見からじゃよく判断できないけれど、私よりは年上だろう。
彼女は入ってきた私を見上げて――酷く、嬉しそうな声で言う。



「改めて会うのは…初めてかもね…?」



それは動物園でずっと見たかった動物を探し当てた子供のような、無邪気な声だった。


彼女は、綺麗な微笑を浮かべているにも関わらず笑っているようには見えない。


その底知れぬ気味の悪さに、ぞわりと鳥肌が立った。


この女性は危険だと全身が警告を発している。



「私は如月…。あなたと同じ日本人よ」



―――『研究の中心人物は2人。如月と、君の父親だ』

―――『あれは筋金入りのマッドサイエンティストだね』



研究の中心人物が、わざわざここまで足を運んだ。



……いいえ、わざわざと言うのも変ね。


彼女達の目的は元より私を取り戻すこと。


私を捕まえたと聞けば、会いに来るのが当然だわ。



私は何も言わず、如月の向かい側の椅子に座った。
「今日は挨拶に来たの。別に強制的にどうこうしようって気はない…」


「……」


< 145 / 261 >

この作品をシェア

pagetop