マイナスの矛盾定義
表面上の微笑を浮かべて2人の喧嘩を眺めながらも、いつかそこの生意気ないちごミルク野郎に何か仕返ししてやろう、と私は心に誓った。
―――
――――――



カタカタ、という小さな音で目が覚めた。


周囲は薄暗い。まだ朝ではないようだ。


ふと拘束が外されていることに気付く。


正面には気持ちよさそうに眠っているラスティ君の顔があった。


その向こう側には、こちらに背を向けて眠っている様子のアランが見える。



……ということは、この音は…。


寝返りを打つと、やはりブラッドさんが自分のデスクでパソコンを打っているのが見えた。



「…何か淹れた方がいい?」



もう秘書ではないのに、自然とそんなことを聞いていた。


ブラッドさんは私の小さな声に手を止め、寝転んでいる状態の私を見下ろす。



「すみません、起こしましたか?」


「別にいいわ。私の眠りが浅いだけよ」



静かに布団から出て立ち上がり、ポットの方へ歩いていく私に、ブラッドさんはクスリと笑って「それなら、ココアでも」と言った。


自分でも何故敵の為にココアを用意しようとしているのか分からなかったけれど、すぐに答えは見つかった。


この行動は、“直接的な危害は加えさせない”と言った彼を非難してしまった申し訳無さから来ている。


結果的に今日は如月に何かされることも連れて行かれることもなかった。


感謝なんかしてやらないけど、この人は本当に私を守ろうとしてくれている――そんな気がした。
「前から思ってたけど、ここって夜景が綺麗よね」



ふと大都市特有の沢山の人工的な光が目に入ったのでブラッドさんにそう言うと、


「そうですか?」


と不可解なことを聞いたような表情をされた。



「そうよ。見慣れるとそうは思わないのかしら」


「何かを綺麗だと思うことが少ないんです。ここに初めて来た時もここからの景色が綺麗だとは思わなかった。…でも、君が綺麗だと言うのならそうなんでしょう。今日から俺にとってここからの景色は“綺麗”なものになる」



どこまでも私至上主義らしいブラッドさんは、またよく分からないことを言う。


やっぱり変わり者だ、なんて少し面白く感じながらも、ココアの入ったカップをブラッドさんのデスクの上に置いた。



この建物の外を見ると、無性に飛び出したい気持ちになる。


たとえこの人達が私を研究所の人々から守ろうとしてくれていたとしても、限界があるだろう。


いくら私をここに留めておこうとしようと、所詮は国家側の組織だ。


私は敵地の中の比較的安全な場所で寝泊まりしているだけ。


大勢の敵が私の居場所を把握していて、こちらの様子を窺っている。


この安全な場所だって、いつ周囲の敵に侵されるか分からない。
もし。


もしここからずっと出られなかったら?


あの研究の実験体に戻ることになったら?


ぶるり、と身体が大きく震えた。小刻みに揺れる指先が自分の恐怖を物語っている。


それを隠すように、私はまた外の景色へと目を移した。





「そういえば、聞き損ねていましたが。君の弱点は何ですか?」



あの時の話をまだ覚えていた様子のブラッドさんが、世間話でも始めるかのように、カップを片手に聞いてきた。



一瞬だった。良からぬ考えが脳裏を過ぎったのは。


私の中の天使と悪魔がせめぎ合う。



人の気持ちを利用するなんて最低だ、と天使が言う。


もう時間がない、と悪魔が言う。


いつまでもここにいるのは危険だ、一刻も早く出なければ、と悪魔が言う。


目的を果たす為には、こんな場所でのろのろしている場合じゃないのよ、と悪魔が言う。


帰りたいでしょう?と悪魔が言う。



――挑発的に笑うシャロンの顔が、頭に浮かんだ。






「…貴方、かしらね」



ブラッドさんの頬に触れ、その青色の瞳を真っ直ぐ見つめた。



「こんな状況に居続けているせいかしら。…優しくしてくれる貴方が凄く魅力的に感じるの」



口から流れるように出ていく造言は、自分が発したものではないように思えた。



「私、貴方のことを好きになってしまったのかもしれないわ」



……最初からこうすれば良かったんだ。


こんなにも近くに、利用すべき人材がいた。



私はアリス。

犯罪組織の一員。

この人は敵。



――…ここから逃げ出す為なら、何だってやってやる。
《《<--->》》
-revenge-
ブラッドさんに偽の想いを告げてから、おそらく数日は経った頃。



「最近ぶらりんさー、アリスちゃんに甘くない?」



何でもない風にブラッドさんの飲みかけのレモンティーを飲んでいる私を見て、ラスティ君が訝しげに問うた。………これはまずい。明らかに怪しんでいる。



ラスティ君とアランのいる場所ではいつも通りの接し方をするつもりだ。


あの2人に私の本当の感情が分からないはずがない。


ラスティ君なんてすぐに見破るだろうし、アランはアランで妙に勘の鋭いイメージがある。


今はブラッドさんを騙すことだけに専念したい。



「だって、喉が乾いたんだもの。飲み物を貰えないから人の物を飲んで何が悪いの?」



ブラッドさんに余計なことを言われても困るから、先に私が答えた。



私がブラッドさんの飲みかけの物を奪うのは、喉が渇いたからという理由以外にもう1つ。


ブラッドさんが飲んだ直後の飲み物なら安全性が高いからというのもある。


ブラッドさんが細工でもしてない限りある程度は安心して飲めるのだ。


今まで一度も飲食物に何か混ぜられたことはないけれど、だからといって完全に信用できるわけじゃない。比較的安全性の高い物で可能な限り水分を取っておくべきだ。




「一応捕まってる身だっつーのに、女王様状態じゃねぇか。お前が甘やかすからだろ」


「俺の物は彼女の物ですから」



当然だとでも言うような表情のブラッドさんに、いつもの如くソファに横になっているアランは呆れ顔。


正直この献身的な態度には私も呆れている。


一応敵だってのに、気を許しすぎよね。


まぁそれが狙いなんだけど。
「何ていうかさー、2人の空気が変わったっていうか、距離感が近いよね。もしかしてぶらりん、最近アリスちゃんに逃げようとする素振りがないからって甘く見ちゃってる?」



ラスティ君はにゅっと私に近付いてきて、私からレモンティーの入っているカップを奪う。



「それとも…そういうのとは別に、何かあったの?」



その探るような視線にぎくりとしながらも、表情でだけは冷静を装った。


何故ブラッドさんへの質問のはずなのにこちらを見てくるのか。私が何かしたと思ってるんだろうか。まぁ、実際したんだけど。



と。

良いタイミングでアランが立ち上がり、ヘッドフォンを付けた。


「俺はそろそろ仕事だから行くわ。ブラッド、敵に入れ込むのもほどほどにしとけよ。…お前もあんま調子乗んなよ?」


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