マイナスの矛盾定義
「あら、調子になんて乗ってないわよ?こう見えてか弱い女の子だもの。敵地にいることが怖くて毎晩震えてるわ」


「どうだか。何なら毎晩快楽で震えさせてやろうか?」



「んもー、やめなよ2人共、そういう卑猥な話は。ていうか敵に入れ込むなってアランの言えた話じゃなくない?」


「あ?」


「何でもなーい」



尤もらしく止められたが、私から卑猥な話を吹っ掛けたわけじゃない。


“2人共”ではなくアランにだけ言ってほしい。



「僕アランが行くついでに2階でお菓子でも買ってこよっかなー。くれぐれも羽目は外さないようにね、ぶらりん」



そう言ってアランと共に部屋を出て行くラスティ君は、最後にばっちーん!とウィンクをしてきたけれど、その後一瞬私に向けてきた視線はとても可愛らしいとは言い難い物だった。



…あのガキ、早速勘付き始めてる…対処しないと不味いわね。


もしくはラスティ君に何を言われても信じない程の盲目状態にブラッドさんを追い込むか。それは流石に短期間じゃ難しいかしら?
ちらりとブラッドさんの方を見れば、向こうもこちらを見ていた。



「おいで、アリス」



2人きりになると、この人の声音はいつもより甘くなる。


落ち着く声ではあるけれど、慣れていないからこそ逆に居心地が悪い。


座っているブラッドさんの足の上に跨ると、腰に手を回され、より近くへと引っ張られた。


シャロンを除いて、異性とここまで積極的に触れ合うことはあまりない。



「“好き”は?」



子供に教育するような口ぶりで言い、私の唇を親指でなぞるブラッドさんは、やけに魅惑的で。



「…好きよ」



思ってもいないことを言う私の耳の傍で、ちゅっと可愛らしいリップ音が鳴る。



「君はもう俺の恋人ですからね?」



確認を取るように聞いてくるブラッドさんに、「そうね」と小さく頷いた。


言葉だけならいくらでもあげるわ。…言葉だけならね?



ブラッドさんが満足げに私の首筋に顔を埋めた時、ガチャリという音がして、仕事部屋のドアが開いた。




ニーナちゃんがやってきたのだ。


最近、夜はいつも4人で寝ているから、ニーナちゃんは朝から夜までの間しかやってこない。



「すいません、盗み聞きをしてしまいました。いえ、聞こうと思って聞いたわけではなく入室しようとした際お2人の会話が自然と聞こえたわけですが…」



ごにょごにょと気まずそうに言うニーナちゃんは、私とブラッドさんをちらりと見て、見てはいけない物を目にしてしまったかのように目を逸らした。


実の兄と異性のイチャイチャシーン…経験したことはないけれど、想像はできる。きっとよく分からない気恥ずかしさに襲われることだろう。
「あの……。…お兄ちゃん」


「何ですか?」



兄妹なのにお互い丁寧語を使うのかこの人達は。


誰に対しても丁寧語というのが定着してしまっているのかしら。



「アリスさんのこと、今も好きなんですか?」



それにしても、あまり良くはない状況だ。


この状況が意味する物が何なのか、会話も聞いていたのならすぐ分かるだろう。


私達2人がただの犯罪者とそれを管理する人物との関係ではないと。



「好きですよ。気が狂いそうなくらい」


「………、」


「ちょうど良かった。俺もこれから出掛けるので、アリスをよろしくお願いします」



ブラッドさんは私を自分の膝から優しく下ろし、パソコンをシャットダウンした。


今日はアランもブラッドさんもいないらしい。



私は言われなくても自分から鎖の近くへ寄っていき、繋がれることに対して抵抗しなかった。ここ最近ずっとそうしている。


全ては、ブラッドさんを油断させる為。完璧に騙す為。


逃げる意志はないと思わせる為。



「行ってきますね。夜には帰ってきますから」



ブラッドさんは私の頬にキスをして、仕事部屋から出て行った。


幸せそうなあの表情を見ると流石に罪悪感が芽生えるけれど…もう後戻りはできない。


徹底的に騙して、少しでも早くここから出られるように――。



「何のつもりですか」



座っている私の頭上から聞こえる、真剣味を帯びた声が、私の思考を遮った。



「アリスさんがお兄ちゃんのことを本気で好きだとは思えません」



見上げると、ニーナちゃんが真っ直ぐな視線を私に向けていて。


私の意図を探ろうとしているのだとすぐに分かった。
「そうね。私だって敵に恋愛感情を抱くほど間抜けじゃないわ」



ドアの外まで聞こえないよう、小さめの声で答える。


隠そうともしない私に対して、ニーナちゃんは眉を寄せた。


「…っ、だったら、」


「私はこんな場所で捕っているわけにはいかないの」



スパイとしての経験上分かるが、ニーナちゃんみたいな子が案外一番騙しにくい。


ならいっそ別の手を行使してしまおう。



「そのうち何としてでも逃げ出すわ」



この手の人間を説得するには、真摯な態度で挑まなければならない。


嘘を吐くのも好ましくない。嘘であるとバレてしまった場合のリスクが大きすぎる。



「…いいんですか?私にそんなこと言って。私だって敵なんですよ?」


「いいのよ。貴女は理解してくれそうな気がするもの」


「どういう意味か分かりかねます」


「私の目的は、この国が協力している人体実験を止めることなの」



哀れみでいい。ほんの少し、彼女の心を揺さぶることができれば――…。



「彼らは生物実験を通して、生み出してはならない兵器を生み出そうとしているのよ。多くの犠牲を出してね。――国としてやるべきことは、もっと他にあるはずでしょう?」



研究に犠牲は付き物だ。


でも、私はあんな研究の為に犠牲者を増やしたくはないし、犠牲者になりたいとも思わない。



「あんなやり方の研究は、いずれ誰かが止めなければならないわ。見たでしょう?彼らは私を実験動物としてしか扱わない。不老不死である限り、私の人生に選択の自由はない」



――過去の貴女と同じようにね。
ニーナちゃんの顔が曇るのが見るからに分かる。


今私はこの子に自分の命運を賭したのだ。


うまくいかず最悪の状況になったとしても、その時はその時で考える。


楽観的かもしれないけれど、これは四面楚歌である今の状況から逃れるチャンスでもある。



「少し………考えさせてください」



ニーナちゃんは俯き、小さな声で言葉を紡ぐ。



「……私は、正直、アリスさんが悪人だとは思えないんです。確かにこの組織にとっては敵ですが、私個人の目から見れば、アリスさんは今まで見てきた残忍な犯罪者とは違う。助けたいと思ってしまうんです。組織の一員でありながら裏切り行為であることは分かっています。エリックのことを考えれば、心が苦しいです。…でも……私にも、組織とは関係なく、私なりの正義があるから…」



混乱しているのか、いつもより辿々しい話し方だ。


確かな手応えを感じた。


ニーナちゃんには私に対する明確な敵対感情がない。


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