マイナスの矛盾定義
ニーナちゃんは突然くすくす笑い出した私に怪訝な表情をしたけれど、暫くしてからごほん、と咳払いを1度して聞いてきた。



「…アリスさんの気持ちは分かりました。でも、ちゃんと約束してくれますか。この組織の人間に危害は加えないと」


「それは難しいわね」



ニーナちゃんの表情が強張り、警戒するような瞳がこちらを見つめる。



「でも、殺さない。絶対に。自分が逃げる為に人を殺すつもりはないわ。この組織の人間は1人たりとも殺さない」



すぐにそう付け足すと、ニーナちゃんは私から視線を逸らして溜め息を吐き、もう一度こちらを見上げた。




「……分かりました。逃げ出すつもりであることを言いません」



自分で仕掛けておいて何だけれど、少し驚く。



「……いいの?」


「償いですよ。あの時私が油断しなければ、敵である貴女に助けてもらう必要もなかったんです」



私がニーナちゃんを庇って撃たれた時のことを言っているのだろう。


そういえば、償うと言っていたけれど…状況が変わった今でも約束を果たそうとするなんて随分律儀ね。



「協力はしませんが、私からの妨害もしません」



これでこの組織の人間1人を欺く必要がなくなった。


それだけでも少し肩の荷が下りる。





「それから、似ていると一言で言い表す前に、相手のことを知ろうとは思わないんですか」


「え?」


「私のことを教えますから、アリスさんのことも教えてください」



そう言って、ニーナちゃんは小さく微笑んだ。



――桃の花に似ている。



その言葉は、ニーナちゃんからの純粋な好意表現であるように思われた。




私が見張り役であるニーナちゃんと2人でいる時間はこの組織のメンバーの中で最も長く、お互いのことを話すには十分だった。


ニーナちゃんの他に誰もいない時には、私の組織やリーダーのことを、愚痴を含めて話した。


ニーナちゃんも、この組織の良いところや悪いと思うところ、メンバーとの楽しかった出来事――そして、自身の過去のことを話してくれた。
《《<--->》》
この国で、リバディーという名前を知らない人はいない。


《《<--->》》
この娼館で、アンという名前を知らない人はいない。
アンという名前はフランス語の1から来ているらしい。


何故私の名前をニーナからアンに変えたのか、そもそも誰が決めたのか分かりはしない。


この場所には2や3もいて、その数字は“どれくらい使えるか”を指しているのではないかと思う。


私の名前の“1”は“1番使える奴隷”の略称なのだろう。


その証拠に、私が来る以前最も売れていた奴隷は、アインス――ドイツ語で1――と呼ばれていた。


この場所では、子供はブランド。希少性がある、とでも言うべきか。



私たちの娼館があるこの地区は、この国で最も治安が悪いと言われていることを最近知った。


確かに、たまの休みに必要な物を買いに行くと、死体がゴロゴロ道端に転がっている。


度々大きな銃撃戦もある。



この状況のことを治安が悪いと言うらしい。


私はここしか知らないから、比較のしようがない。


正確に言えば、幼い頃だけ住んでいた家があるのだが、あまり記憶にない。



ただ思う――ここから見る空はいつもどんよりとしている、と。




「客だ」



今日もこの一言で私は居心地の良いベッドから立ち上がる。



珍しくこの店の経営者が直接私に客の訪れを伝えに来た。


こういう時は大抵、政治家やある種の権力者など、組んでおいて損はない人々が客として来ている。


と言っても、客が何者なのか私に知らされることはない。


服装や身のこなし、持ち物から私が勝手に推測しているだけだ。




「君はその表情が一番いいな。もっと見せてみなさい」



指定された部屋へ向かうため経営者の横を通り過ぎようとした時、経営者の大きな手が腰に回り、私の動きを止めた。



「その表情、とは」


「春を売る前の表情だ。僕は基本男にしか興味がないが、君のその表情だけは美しく感じるよ」


「ありがとうございます」


「そう嫌そうな表情をするな」



経営者は愉しげにくくっと喉を鳴らし、ランジェリー姿の私の背中を指でなぞる。


客や同業者からいつも無表情だと言われる私の表情の微妙な違いを、この男だけは感じ取ることができるらしい。



「あの…早く行かないと遅れますので」


「待たせておくくらいが調度良いだろう。それに、前もって少し身体を敏感にしておいた方がいい」



そう言って私の太股に手を滑らせる経営者は、――経営者であり、私の飼い主でもあるこの男は――噂によると相当なお金持ちらしい。
「…ですが、…ぁ…」


「ですが、何だ?ん?誰に向かって口を利いてる」



この高圧的な態度が嫌い。笑い方が嫌い。自分より下の人間を徹底的に見下してるところが嫌い。嫌い、嫌い、嫌い――…。





キィ、とドアの開く音がすると同時に経営者の視線が私の背後のドアへと向けられ、私もそれに従って後ろを振り向く。


そこには見たこともない男が立っていた。


ベージュ色の髪をした、スーツを着た若い男だ。



「私は待たされるのが嫌いだ」



男は存外淡々とした声音でそれだけを言った。


台詞から察するに、この男はこれから私が相手をする客なのだろう。


こんなに若い客が来るのも珍しい。



経営者はさっきまでの下卑た笑顔とは一変、外向きの爽やかな作り笑いを男に向ける。



「これはこれは。お待たせして申し訳ありません。すぐそちらへ向かわせますので――」


「結構だ」


「はい?」


「ここでいい」



ずかずかとこちらへ向かってくる男は、つまり、指定された部屋ではなくここでしたいと言いたいのだろう。


それは少し困る。ここは私の部屋だ。私が普段食事をしたり仕事のない日に睡眠を取ったりしている場所だ。



この場所を汚したくない――



「然様ですか。では、お楽しみください」


そんな私の心情を知ってか知らずか、経営者はにこりとそう微笑み、私からあっさり手を離して男に頭を下げ、部屋を出て行ってしまった。



重要なのは私の希望ではなくお客様の希望。仕方のないことだ。



「アンです。ご要望があれば何でも仰ってください」



客への決まり文句を言ったが、男は興味なさげに横のソファに腰を掛け、こちらを見ずに問うてきた。



「何歳だ?」


「…年齢は記載されていたはずですが」



寧ろ年齢を見てここへ来たんじゃないのか、と疑問に思う。



「まだ子供じゃないか」


「未熟で申し訳ありません。ですが、お客様にご満足いただけるよう、これから精一杯の努力を…」


「改まるな。自然にしていろ」


「…自然…ですか」



堅苦しい態度を取る女は好みではないということか。


なら私はそのニーズに応えるだけだ。表情を意識的に柔らかくしておこう。


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