マイナスの矛盾定義
少し肩の力を抜き、微笑を浮かべて男を見下ろした――が、男は私の腕を引っ張り、隣に座らせた。



「私の職場の近くは人通りが多い。駅にもそこそこ近く夜でも賑やかで活気がある。治安も良い。絵に描いたような表の世界だ」


「…はい?」


「お前は、そんな世界を知っているか」



妙な男だ。いきなり何だと言うのだろうか。
行為の最中以外で客と会話をすることには慣れていない。


どんな返事を期待しているのだろうと考え黙り込んでしまった私に、男は問い直す。



「お前は生まれた時からここにいるのか」


「…いえ」


「以前はどこに住んでいた?」


「覚えていません」


「自分の意思でここにいるのか?」



何故これからすることとは関係のない質問ばかりしてくるのだろう。


時間は限られているというのに、他に聞きたいことはないのだろうか。



「何をもって“意思”と呼ぶのか、まず教えていただけますか」



質問されるのが面倒で、逆に質問し返せば、男は眉を寄せて何も言わなくなった。


私の返しが気に入らなかったのか、男は、結局私に何をするわけでもなく帰って行った。







もう来ることはないだろうと思っていたその男が次にやってきたのは、それから数週間経った後の、雪の降る日だった。



「お前にプレゼントを持ってきた」



長く通っているお客様ならまだしも、まだ2回目だと言うのに贈り物を渡されたのは予想外だった。



特にラッピングされているわけでもない箱。


どうせ中身は見た目の良い花か食べ物だろう、と思いながら開けてみると――そこには、地図の刻まれたグラスが入っていた。



「これは何の地図ですか?」



私の言葉に、男が眉を寄せたから、ふと分かった。


これはこの国の地図だ。


自分のいる国の地図も見たことがない教養のない女だと思われてしまっただろうか。



「…ここが、私達の今いる場所だ」



しかし、男はそんな私に呆れた様子もなく、静かに地図の一部を指差した。
「経済的流動性の水準が極端に低いし、貧困率も高い。犯罪率まで国内の他地域と比べて何倍も上だ」



子供に新しい知識を教えるように、続けてそう言う。


治安が悪いとは聞いていたが、本当に悪いらしい。


この地域では、この娼館だけが浮いているようにも思う。


ここだけがやけに立派な建物で、周りは荒廃している。




「私の職場はこの辺りだな」



男は指を動かし、こことは随分遠いであろう場所を指した。


そこには街の名前らしき物も刻まれている。きっと大きな街なのだろう。周りよりも大きな文字で刻まれているから、首都なのかもしれない。



「この国は、こんなに広いんですね」



そう言えば、男はまた眉を寄せて――私の背中に手を回し、ぎゅっと抱き締めた。


いよいよそういった行為に及ぶのかと思ったが、それから暫く経っても、男がそれ以上のことをすることはなかった。



不思議な男だ。


男の人に抱き締められるのは、こんなに気持ち良い行いだっただろうか。


背中に回された手の力にぞくぞくする。


ずっとこうしていたいと思う。



高い金を払ってここまで来ているはずが、男はその日も、話し相手として大して面白くもないであろう私と話すだけ話して帰って行った。
その後も、男はたまに私の元へ訪れた。


男がよくするのは、この国の話だった。


各地域の名産や気候の違いなんかも私に教えてくれた。


男が言うには、私の住むこの地域自体がこの国の闇らしかった。


ここは悪人の集う街だと。今まで行った国内のどの地域よりも酷いと。



そして最後には、必ず私を抱き締めて帰って行く。



あの男に触れられるようになってから、それまで多少はあったそういった行為に対するしたいという欲求がなくなってしまった気がする。


したいと思わない。そういった行為よりも、彼に抱き締められる方がずっと気持ち良いと思ってしまう。


どのお客様のお相手も楽しまなければならないのに、以前より感じなくなった。





「客からクレームが来ている。近頃反応が悪いそうじゃないか」



部屋でリンゴの皮を剥いていると、経営者が煙草を吸いながら入ってきた。


私はちらりと経営者の方を見たが、すぐに逸らして、「申し訳ありません。次からはしっかりします」と上辺だけの言葉を並べた。


おかしい。いつも通りにしているはずなのに、やはり分かってしまうほど、表に出ているのだろうか。



うまくいっていないことに対して戸惑う私の手から、経営者はすっと包丁を奪った。


「僕はね、ここの売春婦に刃物をあまり持たせたくないんだ」



見上げると、妙に刃物の似合う経営者が、いつものように笑っている。



「刃物を持つとね、魔が差すんだよ。だから、やめておきなさい」



経営者は私の代わりに手際よくリンゴの皮を剥き、皿に乗せてくれた。
「何かあったのかい」


「はい?」


「珍しいじゃないか。客からマイナス評価が出るなんて」


「……」


「賞味期限が近付いているのかな」



経営者がボソッと呟いたその内容が、私にはしっかり聞こえていた。


その意味を理解することだってできる。


私は子供であることを売りにしている奴隷。


歳を取れば売れなくなるかもしれない。そうなれば、用済みだ。どうなるか分からない。


ここをやめてもきっとどこかで働かされて、そのうちぱたりと死んでしまうに違いない。



「…あの、貴方は、元からここの人間なんですか?」


「何故?」


「いえ…この辺りは荒れているのに、何だかこの娼館だけ綺麗というか、こんな建物を建てるだけのお金がどこから来たんだろうと思いまして…」



どうせ捨てられる身だ。今のうちに気になることを聞いておくことくらい許されるだろう。


聞いてから、ふと、こんなことが気になっているのは何故だろうと自分でも疑問に思った。



「随分と余計なことに興味を持つようになったな。その通りだ。折角だから教えておこう。僕の家はここから遠い場所にあるし、僕は本来こんな場所にいるべきではない金持ちだ。ただ――こういう商売は、ここの方がやりやすいんだよ」



やはり、ここの人間ではなかったらしい。まぁ、身なりからして予想はついていたけれど。



「ついでに言ってしまえば、君の兄達は、僕の屋敷で飼っている」



“兄達”と言われてようやく、私にも血の繋がりのある家族がいたことを思い出した。



「君達は僕の好みなんだ。ただ、僕は男と女の使い道は違うと思ってるんでね。君も男なら、僕の屋敷に連れて行けたのに、残念だ」



もうあまり顔も覚えていない兄のことを、私はこの時初めて懐かしく思った。
長い間、グラスをくれた男は来なかった。


私は仕事で調子を取り戻し、またお客様からご好評を頂けるようになった。


あの男はもう来ないと思いつつ、忙しいから来ないだけだと心のどこかで期待する自分がいて、そのことに少し狼狽した。


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