マイナスの矛盾定義
自分がお客様に対して、いや、何かに対して期待したことは今までなかったのだ。


地図の刻まれたグラスは私のお気に入りとなり、そのグラスで水を飲む度、例の男のことを思い出した。





だから、次に男が部屋に訪れた時には、駆け足で近付いてしまった。



「お久しぶりです」


「あぁ、久しぶりだな」



男は疲れているようだった。やはり忙しかったのだろうか。


私は男を座らせ寛げるよう気を遣ったが、男は逆に私を気遣うような視線を向けてきて、更にはこう聞いてきた。



「私に頼みたいことはないのか」


「頼み事…ですか。特にありません」


「……欲が無いな」


「そうなるのでしょうか?」


「欲しい物とか、したいこととかないのか」



少し考えた。淡い期待のような感情が心臓から広がり――消えた。



「実現不可能な希望を言っても、虚しくなるだけですから」


「望むだけなら自由だ。何でも言ってみろ」



希望することを許された気がして、心臓がきゅっとした。





「できることなら兄達ともう一度会いたいです」



男は暫く黙った後に、ぽつりと「そうか」とだけ言った。
「いつか会わせてやる。必ず」



その言葉が私を満足させる為だけの虚言であることは分かっていた。


でも私は少なからずその言葉に安心感を覚え、この男に甘えたくなった。


我ながら単純であるとは思うが、今まで聞いてきた言葉の中で一番真剣味を感じたのだ。



「……もう1つだけ、よろしいでしょうか」


「何だ」


「…抱き締めてはくれませんか」



男は「あぁ」と少し甘い声で応じ、丁寧に私の背中に手を回した。


大きな手の感覚がした。他の男とは違う温かさを感じた。



「貴方のお名前は?」



お客様の名を聞くのは、本当はいけないことだ。



「エリックだ。…アンというのは本名なのか?」


「…いいえ。私の名前は………ニーナといいます」



お客様に自分の本当の名を教えるのも、きっといけないことだった。






それから数日後。



その日の経営者は、酷く機嫌が悪かった。



部屋へ入って来たかと思えば、私を見ることなく椅子に座った。


長く付き合っている私には、経営者が何かに腹を立てていることくらいすぐに分かった。



「どうなさいましたか」



本当は放っておきたいが、放っておいたところでどうせ気が利かないだのと小言を言われるのだ。


一応気遣いのつもりだったのだが、途端に経営者の目の色が変わり、テーブルの上に置かれていた花瓶が私へと投げつけられた。



「“どうした”?よくもそんなことが言えたものだな」



咄嗟に腕で頭を守ったが、花瓶が当たるとやはり痛い。



「あの男!あの男だ…!あの男が来てから商売がうまくいかない!お前が懐柔しているんだろう!あの男は何者だ…本当にこっち側の人間なのか?」


「…仰る意味が分かりませ、…っ…」



頭を大きく殴られたが、何も思わなかった。


経営者は商売道具に傷を付けるような人間ではない。酷い暴力は振るってこないはずだ。
しかし経営者の“暴力”は、予想とは違う方向からの物で。



「女狐が。雇って貰っている身でありながら、よくも主人に刃向かえる物だ。とびきり痛くしてやる」



経営者はベルトを外し、自分のモノを取り出して無理矢理私にあてがう。


手を押さえ付けられ、抵抗しようとすれば、平手で頬を叩かれた。


私はこの娼館に来て初めて女としての恐怖を感じた。



「待ってください!何があったんですか。どうしてそんなに…、」


「前々から妙な動きはあったんだ。気付かなかった僕も愚かだが、時期的に考えて、あの男が原因だとしか思えない。政府も長く暗黙していたこの地域に、国家の犬が来る。警察だけじゃない――リバディーもだ」



リバディー――…その組織の人間を、私は過去に見たことがあった。


私でも知っているのだから、おそらくこの国の誰もが知っているだろう。



買い物へ行く途中、見慣れない戦闘服を着た若い人々が、大きな車の傍に屯していた。


車に死体を積み込んでいるらしかった。


彼らは他地域で問題になっている犯罪集団のボスを殺しに来たのだと、周囲の人が教えてくれた。


乱暴な人達であるという印象を受けたが、この国の治安は、警察だけでは良くならないのだということも知った。


彼らは人を殺す訓練も受け、日々凶悪な犯罪者と戦っているらしい。



そんな組織をここへ来させるようなヘマを、この経営者がするとは思えなかった。



「あの男は身元を誤魔化してこの娼館に通っていた。おそらく偵察する為だろう。これだけの組織を動かせるということは、それなりの権利を持っているはず…あの男は何者だ。言え」


「ぁ゛……ッ、」



まだ準備のできていない私の身体に、異物が入ってくる。



「し……知りません…どの方の話をされているんですか…!」



思わず大きな声を上げた。慣れているとはいえ、今の経営者は何をするか分からないという恐怖から、余計に痛く感じた。
私が相手する男なんて数多いる。


その中の誰かが経営者の言うような人だったとしても、私は何も知らないし関わってもいない。



「やめてください!!!」



悲鳴にも似た声を出て、急に経営者に対する嫌悪感が高まり、私は必死に何度も経営者を蹴った。


抵抗などしたことがなかったから知らなかった。経営者の力はこんなにも強いのか。


抵抗している最中にサイドテーブルにぶつかり、上からグラスが落ちてきて、中のジュースが絨毯に染みを作ってゆく。




エリックに貰ったグラスだ――私はそれを手に取り、思い切り経営者を殴った。


経営者が怯んだ隙に、必死に走り、部屋から飛び出した。







「………っえ、」



――どうして。どうして?うまく頭が働かない。


何故この男がここにいるのか、この廊下にいるのか、私には見当も付かなかった。


経営者の許可がなければ、ここへは来られないはずだ。


ましてやこんな時に、経営者が客を招くとは思えない。



「…なんて格好をしているんだ。ボロボロじゃないか」



ベージュ色の髪をしたその男の声を――エリックの声を、私はよく知っていた。


会わない間も、何度も何度も思い出した。




「助けて…ください…」



考えるよりも先に、口が動く。



「私を解放してください…」



嗚呼、知らなければ良かったのに。



「貴方が教えたんでしょう?」



何かを欲することも、外の世界も、温もりも。



「ここから出してください……っ」



1度口にしてしまえば、それが最後だ。


感情が溢れ出して止まらない。


熱い涙を頬に感じた。
エリックは黙って私に手を差し伸べる。


眩い光の中へと誘惑されているようで目眩がした。



その手を私が取る前に、エリックは私の手を引き、抱き寄せた。



どうしようもないほど安心したのも束の間、背後から聞こえてくる経営者の声。



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