マイナスの矛盾定義
すっと、ナイフを持つ私の両手に、エリックの手が重なった。



「それ以上はやめておけ。本当に死ぬぞ」



“死”という単語を聞いて、ようやく恐怖が芽生えた。



「憎悪は自らを苦しませる。殺したところで逃れられない。より酷くなるだけだ」



自分の手の力が、次第に緩んでいくのを感じた。


経営者が床に倒れ込み、私も足の力が抜け、床に座り込んでしまった。





「うぁ…っぁああああああああ」



私は泣いた。大きな声を上げて泣いた。



「大丈夫だ。救急隊も来ている。すぐに手当てすれば命だけは助けてやれる」



私を抱き締める手は、いつもと同じように温かくて仕方なかった。



「辛かったな」



その優しい声が、醜い私を浄化してくれるような気さえした。




「僕の商品に触るな…ッ!!!誰の物に手を出している!!この盗人が!!」



自分の傷口を押さえたのであろう血の付着した手が、ずるりと私の足首を掴む。



「……っ、」


「アン………いつ僕が、君に、僕に刃を向けるよう教育した?」



私を見上げる憎悪の目に、思わず体がすくんだ。




「――貴様こそ、私の部下に触れるな」



私の頭上で、身体の芯に響くほど低い声がした。


部下……?



「ニーナは私が買う。今後の所有権は私にある。私の組織の一員にする。そう決めた。貴様の手元には居させない」


「組織?何を意味の分からないことを…、…っグッ」



エリックは私へと伸ばされた経営者の手を踏み付ける。



「え、エリック、やめてください」



痛みに唸る経営者を見て怖くなり、エリックにそう言うと、



「“エリック”…?」


経営者が信じられないとでも言うような声を出した。


見下ろすと、経営者の顔は酷く青ざめている。



「…嘘だろう……まさかあの“リバディー”の…?」



萎縮するかのように手を引っ込める経営者は、先程までとはまるで別人のようだった。



「それ以上喋るな。助けてやれなくなるぞ。貴様の為じゃない。ニーナの為に生かしてやると言っているんだ。…殺してやってもいいんだぞ。こちらとて正義の味方ではない」


「ヒッ…」



経営者は急に大人しくなり、私はリバディーという単語を頭の中で繰り返した。


リバディーのエリック…?


どこかで聞いたことがあると思い、不意に思い出してハッとした。



「あなたまさか、」



見上げるとエリックは、「この国の地図は知らなくても、私の名前は聞いたことがあるらしいな」とおかしそうに笑った。
後日聞いたことだが、あの後経営者は病院へ搬送され、命は食い止めたらしい。


私は経営者から流れ出る血の量を見て途中で気を失ってしまったらしく、本当に搬送されたのかはよく分からない。


ただ、余程うまく商売をしていたのか、経営者があの娼館に関わっていた証拠は掴めず、捕まえることはできなかったそうだ。


でも――経営者が私の人生に関わってくることは二度とないだろうと、それだけは確信している。



私はエリックに導かれるままリバディーの一員となった。




「お前には、どうも庇護欲を掻き立てられる」



エリックはそう言って、私に新しいグラスをくれた。
《《<--->》》
この国に、エリックという名を知らない人はいない。


《《<--->》》
この組織に、エリックの優しさを知らない人はいない。
ニーナちゃんに自分の目的を暴露してから数日が経った。


ニーナちゃんは以前より私への当たりが柔らかくなり、今は一緒にいることも気まずくない。



「アリスさん、今日は苺のマドレーヌを買ったんです。一緒に食べませんか?」



可愛らしい笑顔で提案され頷くと、嬉しそうに2階で買ったらしきマドレーヌを渡してくる。


ニーナちゃんは私の隣に座り、楽しそうに話を始める。


最近分かったことだけど、ニーナちゃんは意外と話すのが好きみたいで、私は聞き手に回ることが多い。



「今日からエリックと一緒に外国へ行ってくるんです。戻るのには数日かかりますが…ちゃんと食事を取ってくださいね」



ニーナちゃんはあまり食べない私のことを心配しているようで、食については厳しく言ってくる。いつもこうして何か食べ物を持ってくるし。



曖昧に微笑み、話を逸らす。



「外国では何をするの?」


「海外の組織との話し合いがあるみたいで。私はついでみたいなものなんですけど、終わったら観光したいみたいで」



何か…ほのぼのしてるわね。


エリックさんとニーナちゃんってこれでもまだ交際していないのかしら?なんて考えていると、ニーナちゃんの視線がドアの傍の床へ向けられた。





「えっ…ヤモリ?」
ニーナちゃんは驚いた様子だが、驚愕したのはこちらも同じだ。


私にとっては何の変哲もないヤモリではなく、――仲間だったから。


ただのヤモリが、しかもあんなに私の仲間であるヤモに似ているヤモリが、こんな場所に偶然来るはずがない。



「どこから入ったんでしょう。外へ出しておきましょうか」



ニーナちゃんはヤモを素手で掴み、ドアを開けて外へ連れて行こうとする。



咄嗟にヤモに聞こえるように言った。


「――この組織の人間は絶対に誰1人殺さないで」



どうしてこんなことを口にしたのか自分でも分からない。


でも何か嫌な予感がして。



「え?」


「あ、いや。何でもないわ」



きょとんと私を見返すニーナちゃんは、当然私が何に向かって話しているのか分からなかった様子。


それもそのはず、普通の人ならまさか爬虫類が私達の組織の一員であるなんて思いもしないだろう。







「なーに?そのヤモリ。珍しいね」


唐突に仕事部屋に入ってくるラスティ君の声に冷や汗が出た。


いつもながら気配がない。



…ヤモの体についた小さなスピーカーを見つけられたら終わりだ。


人間の知能が埋め込まれているとまでは思わなくても、何らかの躾を施されここまで来たとは思うかもしれない。そうなればヤモは…。
「ちょうど良かったです。今からこのヤモリを外に出してくるんですが…見張りが1人もいないとなると問題なので、アリスさんのことを見ていてもらえますか?」


「うん、いいよ。それにもうすぐ出発の時間でしょ?アリスちゃんは僕が見ておくから、そのままえりりんのとこ行っていいよ」


「あ…はい。ならお言葉に甘えてそうさせて頂きます」



ニーナちゃんはヤモを持ったまま部屋の外へ出て行く。


良かった…ラスティ君の目はくぐり抜けられたようだ。



「アリスさん、また後日お会いしましょうね」



にこっと笑い手を振るニーナちゃんにこちらも手錠に繋がれた手を振り返す。


「随分仲良くなったね」とラスティ君は興味無さげに自分の椅子に腰掛け、持っていたいちごミルクにストローを挿した。
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