マイナスの矛盾定義
夕暮れ時、ブラッドさんから暇潰しにと貰った雑誌を読んでいると、デスクワークを終えたらしいラスティ君がソファに座っている私の隣に腰を掛け、話し掛けてきた。



「ニーナちゃん、そろそろ発った頃だね」


「…そうね」


「アリスちゃんにとっては好都合なんじゃない?」


「は?」


「いやー、アリスちゃん達の組織の連中が来るならえりりんがいないうちかなって。えりりんがいないとエレベーターを止められないし」



ヤモのことを思い出す。あいつがいるってことは、誰かが私の救出に来たんだろう。


ひょっとしたらヤモだけが私の様子を見に来たのかもしれないけれど、私がここにいることを知っているってことは、他のメンバーも知っている可能性が高い。



「ぶらりんを利用してなんとか1人で逃げようとしてたのに、折角の努力が水の泡だね?」



……何故そこまで確信を持って言えるのか。


面と向かって話せば焦りが露見してしまうと思い、雑誌の方へ目を向けようとしたが、


「アーリスちゃん?」


逃がさないとでも言うかのように肩に手を回されてしまった。



「机の下に盗聴器仕掛けておいたんだよ。まぁそのうちぶらりんを利用しようとするってことくらいはそんなもん仕掛けるまでもなく大体予想ついてたけど」



心底愉しそうなその声音に、ぞくっと寒気が走る。



「僕はね、アリスちゃんに限らず追い詰められた人間の悪足掻きする姿に凄く興奮するんだ。だからいつも、ギリギリまで切り札を取っておくんだよ。知ってるでしょ?」



身に覚えがあった。


スパイとしてここに来た時、こいつは私がスパイだと分かっていながら状況が最も面白くなるであろうタイミングを見計らっていたのだ。
ラスティ君は返事をしない私を愉しそうに覗き込み、


「クリミナルズはそこまでして帰らなきゃならない場所かな?」


と理解しかねる問い掛けをしてきた。



「当たり前でしょう。私の居場所はあそこだけよ」



――クリミナルズにいたこともないくせに、クリミナルズという組織を軽視するな。



「ふーん。でもさ、」


ラスティ君は顎に人差し指を当て、唇を尖らせる。






「君んとこの組織、収入の一部をマーメイドプランの研究費に回してるみたいだよ?」



予想外の言葉に対し、心は妙に冷ややかだった。



「まぁ、信じるか信じないかはそっちの自由だけど。僕は個人的に研究について嗅ぎ回って辿り着いた結果を述べてるだけだし。それに、ふつーに考えて、アリスちゃんがいなくてほぼ停滞してる研究に国も予算をそこまで割けないと思うんだよね。資金面であの研究を支えてる組織が他にもあるはずって考えたことない?…クリミナルズも、所詮そんな組織なんだよ。非人道的な研究に力を貸す。アリスちゃんが勝手に知った気になってるだけで、あんなクソみたいな組織――、っ」


私はまだ完治していないであろうラスティ君の手に噛み付き、一瞬の隙を付いてポケットからラスティ君の携帯を抜き取り――背面をラスティ君へと向け、サイドのボタンを押した。


煙が噴射し、ラスティ君の顔を覆う。


ラスティ君は一瞬眉を潜めたが既に遅く、次の瞬間には床に倒れ込んだ。
――やっぱりこれ、催眠スプレー付きだったのね。



捕まっている間ラスティ君を観察していて、ただの携帯ケースにしては妙だと思っていた。


多くの種類のアイテムを見てきた私からすれば、怪しいことこの上ない。



敵に使う為に使いやすく改良してあるんでしょうけど、まさか自分に使われるとは思ってなかったみたいね。


ラスティ君が油断する時をずっと待っているつもりだったけど…怒りに任せて動いてしまった。でも、案外あっさりやられてくれたわ。




…さて、これからどうしましょうか。


ラスティ君の服から手錠の鍵を探り当て、手錠を外した。


この催涙スプレーがどれ程の効果がある物かは分からない。早めに出た方が良いだろう。








静かにドアを開け、素早く廊下に出た――が。




「だめだめ、第二の見張り役っつったっしょ?仕事してねーと思ったら大間違いだぜ、アリスちん」



エレベーターの方へ向かおうとしていたところを後ろから勢い良く蹴り飛ばされた。




「……ッ」



陽だ。この男、第二の見張り役とか言っておいて全然来ないと思ったら…きっちり外で待機してたってわけね。
床に蹲る私を嘲笑うかのように、仕事部屋の中から眠っていたはずのラスティ君が現れる。



「残念、さっきのただの水蒸気だよ?アリスちゃんみたいに切羽詰まって武器として使える物をこっちから奪おうとする奴も多いからね。対策くらい取ってあるに決まってんじゃん?」



こいつ、私の悔しがる顔が見たくてわざと眠ったふりをしたのね…。


優秀だけど仲間にはしたくないタイプだ。



「陽くん、そのまま押さえといてくれる?僕の遊び道具の分際で逃げようとしたお仕置きしなくちゃね」


「へいへい、分かってんよ」



陽は後ろから私の脇に手を入れ私の身動きを封じている。


前方から近付いてくるラスティ君は、先程私が使った携帯を片手に持ちながら妖しい笑顔を浮かべていた。



「素っ裸にして恥ずかしいとこぜぇんぶ撮影して、ぶらりんのオカズになってもらおっか」



「ラスティさんゲスいな…」とドン引きするような声が耳元でする。


ちょっと、趣味悪すぎて仲間にも引かれてるじゃない…なんて呆れてみたが、余裕を保っていられるのもそこまでだった。


ラスティ君はナイフを服の内側から取り出し、こちらへとゆっくり歩いてくる。こいつ本気だ。あのナイフで私の今着ている服を、服というより布に近い物を裂く気だ。


焦るな、落ち着け。裸を見られたからって何か起こるわけじゃない。脅えたら余計にラスティ君を煽ることになる。




何とかラスティ君の興味の対象を逸らすことができれば…と考えていた時、私と陽の真後ろでエレベーターが開く音がした。


ブラッドさんか、もしくはアランか。


前者なら助けてくれるだろうけど、後者は面白がってラスティ君に賛同しそう…。
どうかブラッドさんでありますように、と祈りながら振り返ると――






「標的もう見つけたから、始めちゃっていいよぉ」



甘ったるい声が、電話の先の誰かへと指示を出した。


ドン、…ドン、…ドォォゴゴゴゴゴゴ、…と爆発音が続き、轟音を立てて床が震える。



「この本拠地ごと潰してやるから覚悟してねぇ?」



あれほど嫌だった雇い主の登場が、これほど頼もしく感じるのは何故だろう。



「うちの猫に手ぇ出した罰だよ――クソ共が」








クリミナルズのリーダーであるシャロンについて、かつて仲間がこう言っていた。



『あの人を怒らせない方が良いよ。この組織に位ってもんはあってないようなもんだけど、強いて言うなら最高幹部に値する奴ら全員を――もしくはこの組織の主要な構成員全員を――敵に回すことになる』
――数十分前、リバディー本拠地2階食堂。
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