マイナスの矛盾定義


淡々と答えてジャックを通り過ぎようとすれば、行く先を阻むように前に立たれた。



「なぁ、頼むよ、どうしたら許してくれる?俺は君とも協力していたい」


「その協力のためになぜシャロンに隠し事をする必要があるのか分からないわ。許す許さない以前に、雇い主を騙すようなかたちにはなりたくないのよ」


「騙すんじゃない。隠すんだ。一度だけでいい。君だってシャロン君にちょっとした嘘くらい吐いたことがあるだろ?その延長だと思えばいい」


「理由を教えて」


「…それはできない。俺の中に1つの仮説があるだけで、証拠がないんだ。仮説の段階で君にそれを言っても、君が俺に憤慨するだけなのは目に見えてる」



意味が分からないんだけど…。


これ以上話をしても無駄なように感じてジャックを避けて進もうとしたが、また阻まれる。




そればかりかジャックは跪き、私の手を取り、その甲にキスをした。



「二度と君を騙さないと誓うよ。君が望むなら何だってする。死ねと言われれば死ぬし、盾になれと言われればなる。俺はもう目的を果たしてしまったから、今後の生きる意味を全て君に譲渡することができる」
「…貴方にはプライドってものがないのかしら」


「あるさ。こんなこと、エマにしかしたことがない」



駄目だ。信用しそうになってしまう。


落ち着け、この男は詐欺師としても活躍していた。誰にでもこういうことをしていたのかもしれない。



「その言葉は嬉しいけれど、行動にうつしてくれるかが問題よね」



嫌みったらしく言ってやると、ジャックはふむ…と考える仕草をした。


「…そうか。そうだね。確かに一度騙した相手にこの程度で忠誠を誓うというのは失礼だ。なら…」




まるで髪を切ろうかとでも言うかのようなノリでさらりととんでもない発想が出てくるのは、





「この場で俺の腕を切り落とそうか」



裏社会を生きてきた男の特徴なんだろうか。



「えっ……は?」


「骨折って治るのにまぁまぁ時間が掛かるから、ちょうど邪魔だと思っていたんだ。大丈夫、片腕だけなら研究の調査にも大した支障は出ないよ。あぁ、けど今は腕1本切り落とせるような道具がないから、持ってこないとね。少し待っていて」



そう言って踵を返し、どこかへ行こうとするジャックの腕に思わずしがみつく。




「ちょ、ちょっと待ちなさいよ」


「え?」


「え?じゃない!」



きょとんとした顔で見返され、この男が本気であることが分かった。いやいやいや、そこまでしなくていいのよ。私ならまだしも、あなた腕切り落としたら治らないじゃない。
「…………あなたの覚悟は伝わったわ。…一度だけなら言うことを聞いてあげる。具体的には、シャロンに何を隠したいの?」



ああああもう。何で私がそっちのペースに飲まれなきゃいけないのよ。



「いいの?」


「いいから、ほら。私の気が変わる前に早く言いなさい」


「でも、」


「いいから言いなさい!!」


「わ、分かったよ。えっと…とりあえずは明日の俺の行き先かな。もし聞かれたら、別の場所を答えてほしい」



ジャックは明日、本当はこの組織にいる人間に聞き込み調査をすることになっている。


ハードル高いわね…すぐ近くにいることになるからシャロンに見つかりやすいっちゃ見つかりやすい。もし見つかったら嘘だってすぐバレるじゃない。


まぁ、その点は元詐欺師のことですし?上手く誤魔化してくれるんでしょうけど。



「こんなことするのは本当に一度だけよ?」


「あぁ、分かってるよ。ありがとう」



無駄に笑顔が爽やかだから困る。ジャックって憎めないのよね。



ふと時計を見ると、シャロンに伝えていた時間まであと一分。



「じゃあ、私はそろそろ行くわ」



私はジャックに一言言って、全速力で走り出した。
―――
――――――



「おっそぉい。49秒の遅刻」



いつもの如く4回ノックしてすぐドアを開けると、正面にシャロンが立っていた。


廊下は少し寒かったが、室内は暖かい。調節しているんだろう。



「何で遅れたのぉ?」


「ちょっとジャックと話してたのよ」


「また例の研究の話ぃ?今度はどこ行くって?」



…思ったより早く聞いてきたわね。



「昔訪れたことのある研究所を見に行くそうよ。今使われてるかどうかは分からないらしいけど」


「ふぅん。あいつも働きやさんだねぇ。アリスを騙したことを除けば仲間に入れたいくらい優秀な人材だよ。まぁ本人は大きな組織には所属したくないらしいけどぉ」



よし、シャロンは疑ってない。我ながら焦ることなく自然な言い方ができたと思う。





シャロンはいつも使用しているキャスター付きの椅子に座り、足の間をぽんぽん叩いて私にそこへ座るように指示した。


机には私の語学勉強用の本が置かれている。


シャロンは椅子に座って携帯をいじったり論文を読んだりと好きなことをしていて、私はその足の間に座って語学の勉強をする、というのがここへ帰ってきてからのスタイルだ。


不自然だとは思うが、シャロンはこれが好きらしい。
いつものように勉強を始めようと思い、愛用している袋タイプのペンケースからシャープペンシルを取り出していると、今日は何も持っていないシャロンが私のお腹に手を回してきて、耳元で一言。



「アリスの肌に触りたいなぁ」



この甘ったるい声は、耳元で発されるとぞわぞわする。



「…なんか変態っぽいわよ…」



幾分か骨張った手が私の服の中に入り、お腹周りに触れてくる。少しくすぐったい。



「人の肌って何でこんなに触り心地良いんだろうねぇ」


「その辺は大丈夫だけど、背中は最近汗でかぶれてることもあるから触り心地の良さを感じたいならやめといた方がいいわよ」


「かぶれ?体術の練習なんかやってるからだよぉ、暫くはスパイ活動しなくていいって言ってるのにさぁ。塗り薬ならあるけど使う?」


「あら、ありがとう」



シャロンの私に対する態度にしては優しい。


棚に手を伸ばし、乳液状と書かれたローションタイプの塗り薬であろう物を渡され――たと思ったが、薬の容器は私の手の中ではなく、床へと落とされた。



落ちている容器からシャロンの方へ視線を移すと、シャロンはにっこり可愛らしく笑っている。



「拾って?」



……絶対わざとだ。わざと落としたんだ。


といっても薬を貰おうとしているのは私だし、それくらいいいかと思い椅子から降りて床に落ちた容器を拾おうとした――が、急にシャロンの足が凄い勢いでこちらへ向かってきて。



「っ、」


顔面に当たるのは咄嗟に手で防いだものの、足ではじき飛ばされた。


床に転んでしまい、シャロンがくすくす笑いながら見下ろしてくる。



「へぇ、一応の防御はできたんだ。それなりに身に付いてるんだねぇ」



いや、今のは体術云々以前に反射的に防いだというか……。
いきなりこんなことしてくるってことは、機嫌悪い?まさか嘘を吐いたのがバレたんじゃ…。



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