マイナスの矛盾定義
彼女にそう問い掛けたが、“春”と呼ばれるとあきらかに顔が強張るのが分かった。



なぜだかは分からないが、あまり名前を呼ばれたくないみたいだ。


研究所の人間にも春と呼ばれていたんだろうか。


……でも、名前呼べないと不便だなぁ。



「アリス」


「…え?」


「君の名前さ、アリスってどうかなぁ?」


「…アリス?」


「他国ではかなり一般的な名前らしいよぉ。ちょっと古風な気もするけどぉ、そっちのがしっくりこない?」


「……“アリス”…」



彼女――アリスはその名を反芻し、少しだけ口角を上げた。




その日、俺たちの組織の一員であるアリスが生まれた。
その日から、俺にとっての非日常が始まった。






一緒にお風呂に入って歯磨きをしてあげたり、髪を洗ってあげたり、俺はこの子の親でも目指しているのかと自問したくなるほど、気付けばアリスの面倒ばかり見ている。




拾った猫の世話くらい下っ端に任せればいいってのに、俺は何をやってんのぉ?




「ねぇ、シャロン。お風呂上がりのアイスクリームって美味しいのね」


「そうだねぇ」


「……絶対分かってないわ。適当に返事してるでしょ。食べてみなさいよ、ほら」



仕事中の俺にずいっとバニラ味のアイスクリームをスプーンに乗せて差し出してくるアリスは、これが間接キスだとは意識していないだろうし、俺のことを男として意識している様子もない。



「…ところで、アリスさぁ」


「何?」


「裸で俺の部屋を歩き回るのはどうかと思うんだけどぉ」


そう堂々とされると目のやり場に困るんだよなぁ。


まぁ見ていいならガン見するけどぉ、俺のこと何だと思ってるのかが心配だよねぇ。




「そーそー。風呂上がりに裸じゃ風邪ひくぜ?髪乾かしてやるからこっちおいで」



陽も陽で、アリスのことを自分の子供かのように可愛がっている。


ドライヤーを手にアリスを自分の膝の上に誘う陽を見て、思わず叩いてしまった。



「ッ痛ってぇ…!……何ちょっと怒ってんすか」


「見るなよぉ」


「ガキの裸見たところで何も思いませんよ……そんな警戒せんでください。俺、何だと思われてるんすか」
陽は俺を睨みながらアリスの体にバスタオルを巻き、膝に乗せてその髪を乾かし始めた。


そんくらい俺がやるってのに……こいつ、やっぱ子供好きだよねぇ。




ふと時計を見ると、そろそろれんの好きなヒーローものの番組が始まる時刻だった。


あいつももうすぐこの部屋にやってくるだろう。


れんは俺の部屋に先週来たきり来ていない。


起きているアリスを見るのは初めてということになる。






しばらくすると、予想通り部屋のドアがノックされ、「いいよぉ」と言うと扉が開いた。


先程起きたばかりらしくまだパジャマを着ているれんが、アリスを見た途端笑顔になって小走りで中に入ってきた。



「シャロンさんおはよう!陽さんおはよう!」



俺たちに朝の挨拶をし、キラキラした目でアリスを見下ろす。



「不死身さん、起きたんだね!おはよう!」


「え、ええ…」



アリスが戸惑っているので軽く説明する。


「そいつはれん。アリスが眠っている間に一度見に来てたよぉ」


「こんな小さい子も仲間なの…?犯罪組織なのに?」


「まぁ、俺たちの組織は特殊でねぇ。前にも話したと思うけどぉ、元が犯罪組織じゃないから」



行き場のない子供を救うと言えば大層なことをしているように聞こえるが、俺はこの組織にいる子供達を哀れに思う。


犯罪組織に拾われたばっかりに、犯罪者として生きることを余儀なくされるのだ。


もしかしたら別の生き方だってできたかもしれないのに。


過酷な状況から逃れる方法が、他にあったかもしれないのに。
れんが笑顔でアリスに教える。


「この組織はぼく以外にも子供が沢山いるよ。シャロンさんはみんなのお父さんみたいな存在なんだよ」



お父さんって……そう思われるようなことは何もしてないような気がするんだけどぉ。



「人間って分かんないよね!すごく危険な組織にいた人が、今こんなに優しい組織のリーダーになってるんだから」


「…すごく危険な組織?」



アリスが不思議そうに首を傾げる。



「あのね、シャロンさんは昔…」


「―――れん」


ペラペラと余計なことを喋ろうとするもんだから、少し大きな声で呼んだ。


内緒にしろって言ったのに、もう忘れちゃったわけぇ?



「あ……ごめんなさい」



気まずそうに俯くれんを見ていらっとした。


子供だからって謝れば済むとか思ってんの、こいつ。



これだから子供は嫌いなんだ。


口が軽いし、意味分かんない行動取るし、いちいち教えないと分からない。



「……こっち来て」


「な、何?」


「お仕置き」



俺が怒っていることだけは感じ取れるらしく、れんは怯えた顔をした。




その表情を見た瞬間、“衝動”が襲ってきた。
一度平手打ちすると、れんは痛そうに頬を押さえる。


俺を見上げる泣きそうな目は、とても治安の悪い場所で生き延びてきたとは思えない、か弱いものだった。



「…ごめんなさい…シャロンさんがそんなに嫌がると思ってなくて」



れんの弱々しい声を聞いてなぜかまた苛立ちが募り、もう一度叩こうとした――が、

「だめよ、それ以上は。謝ってるじゃない」



いつの間にか髪を乾かし終わったらしいアリスがその手を制止した。



我に返ったような心地だった。



「何に怒ってるのか知らないけど、一度の過ちなら許してあげるべきよ」



アリスの言葉を聞いた時、急に目の前に立っている少年が可哀想に思えてきた。



「……れん」


「は、はい」



れんを叩こうとしていた手を引っ込めて、できるだけ優しい声で教えた。


「そろそろ始まるんじゃないのぉ?あの番組」


「…う…うん」



れんは気まずそうに頷き、テレビの方へ走っていく。



……俺ってば、何を子供相手にムキになってんだか。



ちらりとアリスを見ようとしたが、アリスは俺から離れてれんの方へ行ってしまった。


久しぶりにテレビを観たいのだろう。



テレビの前に座って無邪気に笑うアリスを眺めながら、俺はある種の安心感を得ていた。



あの子が傍にいれば大丈夫だと。



アリスが俺のブレーキになってくれる…


俺の衝動を抑え込んでくれる、と。
――アリスが目覚めてから、半年ほど経った。





先代の死んだ季節だ。


葉の色を変えた落葉広葉樹を見ていると、彼のことを思い出す。







「お前はシャロンだ。決定だ!」



「エッお前女じゃねえの!?それならそうと先に言えよ!可愛い顔してっから女みてーな名前つけちまったじゃねえか!」



「シャロンと陽はマジで喧嘩強えな!俺も勝てねえわ!」




「なあ、シャロン。俺はお前に成長してほしい。だからこの組織を預ける」



「頼んだぜ、ちっちぇえリーダーさんよ」







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