マイナスの矛盾定義
言葉にはできないけれど、ぼんやりとした不快感が広がっていく。


仕方のないことだと分かっているはずなのに納得できていない証拠だ。





アリスが俺の顔を覗き込んで聞いてきた。



「何かあったの?」



さすが、ずっと一緒にいるだけあって俺の変化は分かるらしい。




「…先代のことを思い出してた」


「先代?」


「この組織の前のリーダー。別の組織の人間に殺されたんだぁ」



そんなことはよくあることで、犯罪組織である分危険が付きまとうのは当たり前だ。



でも、あの人は殺されることを分かっていて行ってしまった。


俺にこの組織を置いていった。
たまに、この組織が俺にとって重荷であるように感じるのだ。


やる気のない人間に押し付けられた課題。


断る間もなく行ってしまった先代がもし今生きていたなら、人選ミスだと言ってやりたい。



「俺なんて所詮二流だ」


「二流?」


「先代に比べればリーダーとして劣ってる」



あの人は人が好きだった。


組織にいる奴らは全員自分の息子みたいに扱っていた。


手のつけられないような凶悪犯罪者さえ懐柔していた。


俺はあんな風にはなれない。



「2は特別な数字よ。偶数で唯一素数なんだから」



アリスが俺の隣に座って言った。



「………そうだねぇ」



何を言いたいのかよく分からないが、アリスはうまいことを言ったと思っているらしくドヤ顔なのでとりあえず相槌だけ打っておく。


…変な子だなぁ、ほんと。



おそらく素数が何なのかはバズから教えられたのだろう。


この子は陽から武器の使い方を教えてもらっているだけでなく、バズから勉強を教えてもらってもいる。



そして――拷問を受けた時のための訓練も、少しずつだが行っている。



「アリス、大変じゃない?」


「大変?何が?」


「最近、やること増えたでしょ」


「…このくらい、どうってことないわ。研究所にいた時と比べたらね」



正直、組織内でもこの歳から拷問の訓練を始めるのは少々早い。


だが、この子はけろっとした顔で訓練から帰ってくる。


疲れを顔に出さない。


この組織に付いて行くには必要なことだと考えているのかもしれない。
「私…あの研究所の連中みたいに、人を必要以上に苦しめた後で殺す人間は嫌い」



アリスがぽつりと放った言葉に、ずきっと酷く胸が痛んだ。



嫌いって言ったって、この組織は人を苦しめた後で殺そうとするような奴らばっかだよぉ?と言い掛けて、やめた。


全員が全員そうってわけじゃない。

一発で仕留める奴も多い。

この組織の目立ったメンバーは不必要なことをしない。


自分の悪い部分をこの組織の連中を使って一般化するのはやめておこうと思った。



「でも、私がしているのはスパイになるための訓練なんでしょう?耐えられるわ」



この子は必死に生きようとしている。


自分の運命に抗おうとしている。



そんな彼女を見て、自分も頑張らなければいけないと思った。


同時に頑張らなければいけないことが重荷であるようにも感じた。



「…ねぇ、アリス」


「何?」



俺を見上げてくるアリスがいじらしくて抱き締めた。


思えば、アリスを抱き締めたのはこれが初めてだった。




「どっか遠いところに行こう。今日だけ……背負ってる物全部投げ捨てて逃げよう」



行き先なんて決まっていない。


とにかく遠くへ行きたい。






「…遠いところ?」


「うん。遠いところ」


「どこの話をしているの?」


「どこだろうねぇ」


「…何それ。よく分からないわ」


「うん。俺も自分が何言ってるか分かんないなぁ」


「変な人」


「アリスに言われたくないよぉ」




俺はアリスの指に指を絡め、わざと甘えるように囁いた。



「…俺と一緒はやだ?」




アリスは小さく「ううん」と言って首を横に振った。
飛行機の予約を取り、タクシーで空港へ向かった。


空港に着くと雨が降り始め、アリスと手を繋いで走って中へ入った。


ただそれだけのことが妙に楽しかった。


アリスは指名手配人である自分がこんな場所に来ていいのかとそわそわしていたが、偽造パスポートは既につくってあるし、万が一バレた時のためにボタン1つで仲間が駆けつけてくるようにしてある。




幸い、アリスを連れていてもあっさり飛行機に乗ることができた。




機内食はサラダとパンだった。


アリスは久しぶりに外へ出たせいかあまり食欲がしないようで、アリスの食べ残した分は俺が食べてあげた。


食い入るように空からの景色を眺めているアリスは、おそらく飛行機に初めて乗るのだろう。



愛娘を見ているような幸せな気分だった。
約半日のフライトを経て、到着したのは幸せな場所として有名な北欧の国。



まだ真っ暗だが、雨が降っていないことは分かる。





「現金は引き出さないの?」


「この国はカードでいけるとこが多いらしいからねぇ」


「ここの硬貨は可愛いらしいわよ。国民投票でも自国通貨への愛着からユーロが導入されなかったってバズ先生に習ったわ」


「…欲しいのぉ?」


「……ま…まぁ、欲しくないといえば嘘になるわね」



素直に欲しいって言えばいいのに。


甘え慣れてないのかなぁ?



現金をいくらか引き出していると、使い捨ての携帯の1つが鳴った。


組織の誰かだということは分かり切っていたので切ってしまおうとしたが、番号を見ると陽からだったので仕方なく出ることにした。





『あんた何考えてんすかっっっっっ!!』



電話に出ると真っ先に怒鳴られた。


おー、珍しく本気で怒ってる。



「書き置きしてあるでしょお?」



“ちょっと国外逃亡してきます”って。
『リーダーとして自覚ある行動取ってくださいよ!あんたが勝手にいなくなったら組織が混乱します!!』


「まぁまぁ、その辺はうまく調整してよぉ」


『俺を何だと思ってるんすか!?何でもできるわけじゃないんすよ!?』


「できないできない言っときながら何とかしちゃうのがお前じゃん」


『ッですが、』


「頼むよ陽、今日だけだからさぁ」


『…へ?今日だけ?』


「うん。今日だけアリスと旅行に来てんの。つっても日付変わってるし移動にも時間掛かるから、実質2日くらい?」


『……2日…っすか…』



消火された火のように声が小さくなっていく陽。


あの書き置きを見て俺が組織から永遠にいなくなるとでも思ったんだろうか。



「俺がリーダーをやめようとしてるって思ったのぉ?」


『まぁ…少しは……』


「安心しなよぉ。何も言わずにやめるつもりはないからさぁ」


『いい加減なあんたならそれくらいしかねないと思ったんすよ!』



冷静さを失っているらしい陽から本音が流れ出てしまっている。



「俺だって先代には感謝してるんだよ?その先代が残していった組織を、適当に捨てられるわけないでしょ」



これだけは本心だった。


あんな組織から逃亡してきた俺を仲間にしてくれるような奴は、先代しかいなかった。



< 215 / 261 >

この作品をシェア

pagetop