マイナスの矛盾定義
「……何を言い出すのかと思ったら。貴方、9階の秘書のルール知らないのね」


9階の秘書はこの建物内にいる間、外との連絡を一切してはいけない。


だから自分の携帯やパソコンは持参してはいけないことになっている。


これは秘書になる前に書類で伝えられていたことだ。


…まぁ、携帯やパソコンなんかでやり取りするのはリスクが高いから私は元々スパイ活動中には使わない。


シャロンとはクリミナルズの人間が特別に作ったこの右耳のピアスで連絡を取り合っている。



「いや、そっちじゃなくてさ。あれ?もしかして内部連絡用の携帯、持ってねーの?」

「内部連絡用…?」


首を傾げると、ラスティ君が「アリスちゃんには必要ないかなって思って渡してないよ」と先に答える。


「えー…もし何かあった時に連絡が取れなかったら困るだろ。渡しといた方がいいんじゃねーの」


「んー、まぁアリスちゃんが欲しいって言うなら用意するけど」


そう言って私を見てくるラスティ君。
「……その内部連絡用の携帯って何?」


「この組織の人間だけが持ってる携帯。外部には連絡できないけどね。内部の人間との電話、それからメールができるってだけ」



…そんな物があったのね。


ということは、この組織の人間は普通の携帯とその携帯の2つを常に持ってるってわけ?


内部の人間と電話…か。秘書としては、できた方が便利。


何か質問があれば、もし優秀組の誰かが別の階にいてもすぐ連絡ができるようになる。


でも、スパイとしては持たない方がいいかもしれない。携帯って色々と仕掛けられやすいのよね…。



「んじゃ俺のメアド教えとくから、また渡されたら送ってきてな。そしたら番号もメールで伝える」


私が悩んでいる途中だっていうのに、隣で勝手に話を進める陽。



「あの、まだ欲しいなんて言ってないのだけど…」


「いいじゃーん。俺アリスちんと仲良くなりてーし」


「私はいきなり直接的なセクハラしてくるような人と仲良くなりたくないわ」


「…分かったよ、今後は触ったりしねーって。ごめんな。」



陽はいかにも反省していますみたいな顔で謝ってくる。


…まぁ、1回までなら許してやろう。
「あの…私もアリスさんとメールがしたいです」


「あ、アタシも~!」


ニーナちゃんとチャロさんが話に乗ってきた。


まずい…断りにくい空気に。


まぁ、別にその携帯で何かするってわけでもないし…もし盗聴の道具に使われたとしても、シャロンと連絡を取る時は別の場所に置いておけばいい話だし。


何より、ここで断るのは不自然。


「……そうね。じゃあいただこうかしら」


ギリギリまで迷った末、私はラスティ君にそう言った。


「りょーかい。すぐ用意できると思うよ。多分明日の朝くらいには」


「やったー!じゃあアリスちゃん、これから夕食一緒に食べない?」


チャロさんがいきなりそんな提案をする。


「あ…私も一緒に食べたいです」


ニーナちゃんもエリックさんの膝の上でそう言った。


ニーナちゃんとエリックさんが座っているテーブルはそれなりに広いし、今ここにいる人数でも十分一緒に食べることができる。


エリックさんはそれを察したのか軽く舌打ち。そして私を睨む。


うわ…この人まだ私のこと敵視してるわね。


ニーナちゃんと2人きりで食事したかったのも分かるけど、そのニーナちゃんがみんなで食べることを希望してるんだから諦めなさい…と目で伝えた。


チャロさんと陽は既に別のテーブルから椅子を持ってきて、一緒に食べる準備を始めている。


ラスティ君も“春”のことについてもう少し私と2人で交渉をしたかったみたいだけど、結局みんなで食事することになった。



―――何だか、今日ずっと上に乗っていた何か重い物が、少しだけ軽くなった気がした。
《《---->》》
何人もの人々が、話し合う声が聞こえる。




《《---->》》
『実験体の再生時間は、徐々に短くなってきている。また、20歳前後で完全体になるとも予想されている。多少の誤差は生じるだろうが、今後も実験を続けてくれ』


《《---->》》
『素晴らしい…!では次は、この薬が誰にでも適応するように作りかえなくては』


《《---->》》
『と言っても、まだ分からないことが多いからな。あの薬の力がどれほどの物なのかを試さなければならない。実験体を調べ、どのような生物にあの薬が適応するのかも調べよう』


《《---->》》
『ですが、実験体はまだ昨日の実験での傷が治っておりません。』


《《---->》》
『構わんよ。あの程度の怪我など、慣れてもらわないと困る。どれだけのことに耐えられるかも、実験の大切な材料なのだから――』
「……ッ、」


目を開く。天井が見える。見慣れた天井だ。



柄にもなく暗い部屋が怖くなった。


一息吐いて、ゆっくりと起きあがる。心臓がバクバクと音をたてる。



「夢…か」


1人呟いた。悪夢なんて久しぶりに見る。


ジャックとあの研究のことについて話したから、夢にまで出てきたのかもしれない。今日は色んなことがありすぎたんだ。



途端に眠るのが怖くなってきた。


今から寝たら、もう1度悪夢を見るんじゃないかという恐怖が襲ってくる。


ただの悪夢ならまだしもあの夢は洒落にならない。




深呼吸をして自分を落ち着かせた頃には、既に眠気も覚めてしまっていて。


静かにベッドからおり、廊下へ出た。


廊下には常夜灯が付いていて何となく安心する。
少し水でも飲んでからまた寝よう。


そうすればきっと、もうあの夢も見ないはず…。



――そう思った時、突然話し掛けられた。


「アリス?」


ビクリと体が無意識に反応する。


こんな時間に廊下に誰かいるとは思わなかったのだ。



「……何?ブラッドさん」


できるだけいつも通り接しようとしたのに、少しだけ声が掠れてしまった。


あぁ、タイミング悪い。どうして今ここにいるのよ。



「何をしているんですか?こんな時間に」


「…それはこっちの台詞だわ。私は目が覚めちゃったから少しその辺をぶらぶらしようと思っただけよ」


「俺は今から寝るつもりで部屋へ向かおうとしたら、君がいた」


「今から寝る…?貴方、今まで何してたの?」


「書斎で読書です。早めに切り上げるつもりだったんですが、予想以上に長引いてしまって」


「ふーん…もしかして書斎って、シャワールームの隣にある部屋?」


「そうですよ。よく知ってますね」


ブラッドさんは独特のこぼれるような笑みを浮かべる。


私を見つめるその瞳は、どこか優しげだ。
まぁ、ブラッドさんがあの部屋に出入りしているところを何度か見たし…書斎と言われると納得がいく。


仕事ばかりじゃ味気ないだろうし、そりゃ趣味もあるわよね。



「引き留めてごめんなさい。明日も仕事なんだし、お互い早く寝ましょう。おやすみなさいね」


長話をしてブラッドさんの睡眠時間を削りたくないと思い、そう言った。


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