マイナスの矛盾定義
本当は、部屋より少しだけひんやりとしたこの廊下にもう少しいたかったのだけど…この様子じゃ大人しく部屋に戻った方が良さそうだ。



しかし、ブラッドさんからの返事はない。


私が完全に部屋に戻るまで見届けるつもりなのかしら…?と不思議に思いながらも、部屋に入る。



――いや。正確には、“入ろうとした”。




「………」

「………」



ドアが閉まらない。視線を下降させると、ブラッドさんがドアの隙間に足を挟んでいる。あきらかにわざとだ。
足を退けてくれると嬉しいのだけど――と言おうとした刹那、ドアが無理矢理開かれる。


そして、腕を掴まれた。



「昨日の夜は何をしていたんですか」


ブラッドさんの手に力が籠もる。


振り払おうとしてもできない。



「別に…普通の夜だったけど」


「あのホテルには一晩中泊まったんですか?」



あのホテルって…まさか私が昨日泊まったホテルのことを言ってるんだろうか。


どうしてホテルに泊まったって知ってんのよ?


…もしかして、シャロンが見つけてくれたあの機械?


そういえば、GPSがついてるとか何とか言ってたわね。


あの機械を後で回収した、もしくはあの機械が得た情報は元々何らかの端末に送信される仕組みになってたとか…?



「……貴方達、いよいよストーカーっぽいわね」


「質問に答えてください」


「泊まったわよ。だから何?」



ブラッドさんの眉間に皺が寄る。こんな表情を見たのは初めてだ。
「何を、したんですか」


「え?」


「分かってる。俺にはまだ、君のプライベートに口を出す権利なんてない」


「……」


「だけど、嫌だ。君が他の男と一緒に何かをするなんて嫌だ。」



……ちょっと、この人誤解してない?



「別に、何もしてないわよ。少し話して寝ただけ。あ、寝たっていうのは勿論そのままの意味よ?」


私が罪悪感を感じる必要はないのに、何だか居心地が悪く思ってしまう。



不意に、ブラッドさんが私の腕を掴んだ。



「俺の部屋に行きましょう」


「……は?」


「俺の部屋で眠ればいい」



訳が分からずポカンとしていると、私の腕を引っ張り無理矢理自分の部屋へと向かうブラッドさん。


ちょ…何がどうなったらそうなるのよ?



実は冗談という可能性に期待してみたけれど、ブラッドさんの部屋の前まで連れてこられた時、そんな僅かな期待も消え失せた。
「待って。私は自分の部屋で寝るわ」


「駄目です。前はアランと一緒に寝て、昨日はその誰かさんとも一緒に寝た。なら、俺とだって寝れるでしょう」



反論はあっさりと却下され、結局部屋へと連れ込まれた。



どうしようかしら……この人は優秀組の3人の中で一番常識的な人だと思っていたけど、それも何だか怪しくなってきた。




そのままジリジリとベッドへと追い込まれる。


そういえば、前はソファに追い込まれた気がする…なんて、頭の片隅でそんなことを考えた。


有無を言わせず私を追い詰めるブラッドさんと、ギリギリまで追い詰められてベッドへ倒れ込んでしまう私。


ふわり、と布団の柔らかい感覚が私を包み込む。



「もし少しでも逃げだそうとするようであれば…縛りますよ」



自分の口元がひくつくのが分かる。ブラッドさんの声のトーンが全く冗談に聞こえない。


今回は本当に逃げない方が良さそうかもしれない。



焦っているのをバレないようにするのが精一杯だ。


落ち着け私。別に何かされるってわけじゃないんだし…と思ったところで、ふと夕方のラスティ君の言葉を思い出す。


――“僕だってびっくりしてるんだけど、ぶらりんは最近アリスちゃんその物にも惹かれてるらしいんだよね”――。


……あれが事実だった場合、この状況は非常に困る。
大体、私の何に惹かれるって言うのよ?


やっぱり初恋の人に似ているからってだけなんじゃないかと思ってしまう。まぁ、スパイとしては嬉しいことなわけだけど。


…いや。そうだ、私はスパイだ。困ることなんて何もない。


適当に気に入られておけば、何か情報を聞き出せるかもしれない。


一晩同じ部屋にいるくらい、何も困ることなんてない。


……なのに、焦っている自分がいる。




「いい子ですね」


ふふっと笑みを浮かべ、私の靴を脱がせるブラッドさん。


足にブラッドさんの冷たい指先が当たり、ピクリと反応してしまう。



「ま…待って。私はこのベッドで寝るの?もしかして、あなたがソファ?」


「このベッドで俺と君が寝るんです」


「そ、それはちょっと…」


「嫌ですか?」


「…そういう問題じゃなくて…」


「……可愛い」



この人、ついに何の前触れもなく可愛いとか言い出したわよ…?


私の声はちゃんと届いているのかしら…。
そんなことを考えていると、フッと灯りが消えた。


ブラッドさんが電気を消したらしい。


その刹那、きつく抱き締められた。ブラッドさんの何ともいえない良い香りが漂ってくる。


そのまま押し倒され、思わず身構えてしまう私。



そして。


「――っ、」


離れようとする。しかし、ガッシリ掴まれていてできない。



「ちょ…っ、ブラッドさ…、足っ、足冷たい…っ」


「君が温めてくれればいいでしょう?ほら、手も冷えたんですよ」


「……ッ」



ピトリと冷たい手を何も身に付けていないうなじに直接当てられる。


逃げられないのはもう分かった。だから、何とか耐える。


でもやっぱり冷たくて、少しだけ力が入ってしまう。
「大丈夫です」


優しい声音が鼓膜を擽る。



「君が眠っている間、俺がずっと君を守っておきますから。何も怖いことなんてありません」


「―――…、」



どうして、ばれた?


この人は、気付いたんだ。


私が脅えていることに。


何も言っていないのに。



嗚呼、何だか凄く眠たくなってくる。


私は安心しているのだろうか。この人の、腕の中で。



「――…好きですよ」


とんでもないことを言われているのに、すぅっと眠気が襲ってくる。


確か前にジャズバンドの団体に撃たれた時もそうだった。




この人の腕の中は、やたらと心地良いのだ。
最初に感じたのは音だった。


書類を捲るような音が耳に入ってきた。次に、珈琲の香りがした。


瞼を開けると、椅子に座っている背中と、サラサラしたブラックブルーの髪が見えた。


暫し動かず、状況を思い出す。そうだ…私、ブラッドさんの部屋で寝たんだ。


ゆっくりと起き上がると、シーツと服の擦れる音でブラッドさんがこちらに気付く。



「…起きたんですか」


ブラッドさんは眼鏡を外して立ち上がり、私の方へ寄ってくる。



「どうします?チーズトーストくらいならつくれますけど…先に着替えますか?」


そう言うブラッドさんはもう既に着替えていて。



そういえば私って今日から夏服だったわね…と思い出しベッドから出ると、衣服の入った袋を渡された。


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