マイナスの矛盾定義
着替える為にキャミソールを脱ごうとして、ふと鏡を見ると――鎖骨の辺りや、肩の辺りにいくつも赤い跡があった。


ギョッとして目を擦り、見間違いではないことを確かめる。


何これ…昨日はなかったわよね…?ていうかこれって…キスマークじゃないの?


鏡に近付いて鏡の汚れではないことを確かめる。


一体いつの間に…?


困惑しながらも、とりあえず服を袋から出した。


入っていたのは黒のペンシルワンピース。やっぱり黒だ。


着る前にもう1度鎖骨と肩を見て、考える。


思い付くことと言えば…ブラッドさん。昨夜ずっと一緒にいたし、眠っている間にキスマークを付けられていたとしてもおかしくはない。


ギリギリ服で隠れるのが幸いだけど…。


私は急いで着替え、袋を持ってブラッドさんの方へ向かった。
「もう着替えたんですか。早いですね」


「……あの」


「うん?」


「…キスマークが、結構付いてたんだけど」


「あぁ、」

ブラッドさんはにこりと笑って。


「―――君のうなじにキスマークが付いていて腹が立ったので、つい」


……この笑顔を恐ろしく感じるのは、私の気のせいだろうか。



「あー…、えっと…折角だから、ここでチーズトーストでも食べてから部屋に戻ろうかしら」


何だか寒気を感じつつも本能的に話を逸らす。


壁にある時計を見ると、時刻はAM 6:40。


「じゃあ、一緒に食べましょう。すぐ用意しますね」


ブラッドさんは満足げに微笑む。



「え…私が用意するんじゃ、」


「君にはいつも手伝ってもらってますから。たまには俺にもさせてください」


あっさりそう言われた。


手伝ってもらってるって…副業とはいえ、私はここで秘書として働いてるんだから当たり前じゃない。報酬も貰ってるし。
「珈琲くらい私に淹れさせて。待ってるのも暇だし」


ブラッドさんの返事は待たず、隣に立って珈琲を淹れる準備を始める私。


ブラッドさんはそんな私にふふっと柔らかく笑う。



「なら俺はチーズトーストを2人分つくりますから、君は珈琲を2人分淹れてください」


「分かったわ」


「君のそういうところ好きですよ」


「……貴方はもう少し発言に躊躇いを持つべきだと思うのだけど」


「何故?ただ事実を言っているだけです」


「……。」


返すのも面倒になってきて、結局無視という形になった。


その“好き”が単なる“好き”ならまだしも、この人が言ってるのは多分…。


「何か、夫婦みたいですね」


不意に投げかけられた台詞に一瞬フリーズ。


「…何言ってんのよ」


「一緒に朝食をつくって一緒に食べる…そういうスタイルの夫婦もなかなかいそうじゃないですか」


つくるって言っても珈琲とチーズトーストだけじゃない。


それだけで何喜んでんだか…。


普段は無表情なくせに、こういう時は笑顔を見せるから困る。



この人は、本当に恋愛対象として私のことが好きなんだろうか。


もしそうだとしても、その気持ちには答えられない。私はあくまでもスパイだから。


たとえ何度好きだと言われても軽くかわしていくしかない。


もしくは――ラスティ君がしようとしたように、この人の気持ちを利用するかだ。
チーズトーストと珈琲が出来上がり、ソファに並んで朝食を食べる。


思えば、ブラッドさんと一緒に食事をするのは初めてだった。



「貴方が食事をしている姿ってなかなか珍しいわよね。普段2階で食べたりしないでしょう?」


「人が大勢いる場所で食べたくないんです。2階で何か買ってからこの階に戻ってくることは多いですが…」


「へぇ、それってこだわりみたいなもの?」


「いえ、君となら毎日一緒に食べてもいいくらいですよ?」


「………」







食べ終わる頃には、そろそろ仕事が始まるという時間になっていた。


自分の物は自分で後片付けをし、部屋を出ようとするとブラッドさんが名残惜しそうに抱き締めてくるので、「調子に乗らないで」と言って部屋を出た。


どうせ仕事場でも会えるのに、何でそんなに寂しそうなのよ…と思いつつ、私は仕事の準備をする為自分の部屋へ戻った。
―――
――――――



お昼時。


キスマークが服からはみ出さないかとハラハラしながらも、なるべく平静を装って廊下を歩く。


ブラッドさんが言っていたのは多分、休暇を貰う前にアランから付けられた物だ。


髪で隠れてて誰にも見つからないと思ってたのに…。



「アリスちゃーん」


と、不意に廊下の向こう側からラスティ君が小さなダンボールを持って歩いてくる。


「これ、5階まで運んでくれる?それと、これが内部連絡用の携帯ね」


ダンボールと携帯を渡された。これが内部連絡用の携帯…指でタッチするタイプだ。



「操作は普通の携帯と同じだから、使い方にはそんな困らないと思うよ」


「ありがとう。えーっと、これを5階までね?」


「そうそう、よろしくね~。…ところでさーアリスちゃん、ぶらりんと何かあった?」


ラスティ君が表情を一切変えずに聞いてくる。


何の前触れもなくブラッドさんの話をされたもんだから、内心動揺してしまった。
「…どうして?」


「いや?朝からぶらりんがやたら上機嫌だったんだよね」


「だからって何で私なのよ。別に何もないわ」


「ふーん…」


ラスティ君は見下ろすように粘っこい視線を私に向ける。


私も何でもないかのように素知らぬ顔をする。



――次の瞬間。ラスティ君は追い詰めるように私の背後の壁に手を付き、

「う・そ・つ・き」

耳元で甘い吐息を吐き出した。その後、クスクスと笑い声を漏らす。



「…嘘?どうしてそんなことが言えるの?」


「だーって、僕見たし。ぶらりんの携帯の待ち受け画面」


「は?」


「アリスちゃんの寝顔の写真だったよー?あのベッド、ぶらりんの部屋のだよね?てことは、アリスちゃんはぶらりんの部屋で寝たってことだ」



…駄目ね。ラスティ君にはお見通しだ。


あの人何で私の寝顔を待ち受けにしてんのよ…!


盗撮したうえ待ち受けにするって…なかなか図太い。




「…別に、ただ一緒に寝ただけよ。貴方が面白がるようなことは何もしてないわ」
「ハハ、アリスちゃんそれ本気で言ってる?」


「え?」


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