マイナスの矛盾定義
―――夜。



「お疲れ様ー。アリスちゃん、夕食の時間とらなかったでしょ?今日はもう休んでいいよ」



仕事部屋にてラスティ君にそう言われ、んーっと伸びをする。


もう夜と言っていい時間帯なのに、外はまだ十分明るい。


今日はちょっと早めに秘書としての仕事を終わらせたかったのだ。


シャロンがあんな身勝手な行動をし始めてるんだから、スパイとしての活動もあんまりのんびりしてられない。


今晩からは情報管理室に行く為の具体的な方法を考えないと。



……というか。

「ブラッドさんを今朝から見てないわね」


今仕事部屋には私とラスティ君の2人だけ。


アランは今日フリーらしいけれど、ブラッドさんもいないってどういうことよ。



「気になるー?」


ニヤニヤと自分の椅子から立ち上がるラスティ君。


ちょっと聞いただけなのに、その楽しそうな表情は何なの。
「ぶらりんは今日仕事で出掛けてるよ。珍しくないでしょ?アリスちゃんが初めてここに来た時も出掛けてたし。まぁ、夜には帰ってくるだろうけどね」


「…ふーん」



じゃあ今朝名残惜しそうにしてたのは、出掛けるからってことかしら?


それならそうと言ってくれたら良かったのに…秘書の私がブラッドさんのスケジュールを把握できてないってどういうことよ。


溜め息を漏らしつつ、自分の部屋に戻る為に片付けを始める。



――その時だった。


「あーあ、明日は8階の機械の点検かー」


ラスティ君がボソリと愚痴っぽく放った言葉。


「…8階には点検が必要な機械があるの?」


その言葉を聞き逃さず極自然にそう聞くと、ラスティ君は思い出したように言う。


「あー、そういやアリスちゃんって8階行ったことなかったっけ?…まぁ当たり前か」


「当たり前…?」


「いや、あそこは優秀組とトップしか入っちゃ駄目なんだよ。結構重要な情報とかも管理してる場所だからね」


「…へぇ」
つまり、秘書でも入っちゃ駄目ってことじゃない。


そんな場所に行ってクリミナルズの情報を消すなんて…かなり難しいわね。



心の中で舌打ちをしていると、ラスティ君が私の方を見て目を細めた。



「気になる?」

「え?」

「8階」


どこか面白そうな声音。



「…別に」


「はい嘘ー。知りたがりのアリスちゃんにとっては、この組織の心臓とも言える情報管理室ってのは気になるんじゃない?」


「気になったからって、どうにかしてくれるわけでもないじゃない」


「どうにかできるよ?僕ならね」



ラスティ君は、お得意の笑顔を見せてくる。


私は片付けを終え、荷物を持ってアランの椅子から立ち上がった。


仕事部屋での作業ではよくアランの机を使っている。
「どうにかできるからってしていいわけじゃないでしょう?」



あまり食いつきすぎないように聞く。


正直絶好のチャンスだけれど、下手に動くことはできない。


すると、ラスティ君はクスリと笑って私の髪に触れた。



「ルールを守るようなイイ子ちゃんじゃないくせに」



私より年下のくせに、どこか大人びた瞳が私を見つめる。


私は眉を寄せ、ラスティ君の手をはらう。



「何だか侮辱されてる気がするのは私の気のせいかしら?」


「まさか。褒めてるよ?そういう子は僕好みだしね」


「貴方好みでも何も嬉しくないんだけど…?」


「まぁまぁ、明日にでもちょーっとだけ8階に連れてってあげるよ。機械の点検1人でやるってのも面倒だしね」



…結局面倒な作業を秘書である私に任せようってわけね。




「ルールを守らない悪い子は貴方の方じゃない?」


ハッと鼻で笑って仕事部屋を出た。
ドアを閉め、私は周りに誰もいないことを確認してからガッツポーズをとった。


ラスティ君――今回ばかりは貴方の気まぐれさに感謝するわ。


どうせ“何か面白そうだから”なんて理由で私を8階に連れて行く気になったんだろうけど…まさかこんなにあっさり任務を遂行できるようなチャンスがくるなんて。


ラスティ君がいるから怪しい行動はできないにしても、8階の様子を確認することはできる。それは大きな進歩になるだろう。


ここでのスパイ活動も、終わりに一歩近付いた気がする。



私はほくそ笑みながら、夕食に何か買おうと思ってエレベーターへ向かった。


その時、ポケットの中の携帯が震える。


誰かしら…?と思いつつメールフォルダを開くと。





――――――――――――
From:エリックさん
Sub:早急に
食堂に来い
――――――――――――




早急に?まぁ、ちょうど2階に行こうとしていたところだしいいのだけど。


何かあったとか…?いや、何かあったからって私を呼ぶのはおかしいわよね。私はただの秘書だし…。


嫌な予感が脳裏をよぎる。


この組織のトップが直々に私を呼ぶなんて…何か怪しまれるような行動をしてしまったかしら?


記憶を辿りながらもエレベーターに乗り、【2】のボタンを押す。


何にしても、ここまで順調に進んでるんだから…ここで失敗するわけにはいかない。
―――
―――――




「ニーナが私を避けているんだ」

「……はぁ?」



食堂の一角。エリックさんが放った言葉に、私は間抜けな声を出してしまった。



「今日1日ずっと…ニーナに避けられている」

「はぁ?」

「付いてくるなと言われた」

「はぁ?」

「これは由々しき事態だ」

「はぁ?」

「おい、真面目に聞いているのか」



やけに深刻そうな顔をしていたから、本当に何か怪しまれているのかと思ったのに…私の不安を返してほしい。拍子抜けにも程がある。


まさかニーナちゃんのことで呼ばれるなんて。


呆れつつもエリックさんが座っている席の反対側に座り、まだ食べていない夕食を注文する。



「お前は何か聞いていないのか?」


「…特に何も。単に貴方が嫌われただけじゃない?」


あんなに厚かましくて今まで避けられなかった方が逆に凄いというか。


とはいえエリックさんは本気で悩んでいるようで、心配になるレベルだ。
「今日は重要な日なんだ。私はニーナを祝いたいし、できることならずっと抱き締めていたいんだが、何故か避けられている」


「…やっぱり嫌がられてるんじゃない。祝いたいってことは、誕生日か何か?」


「いや、誕生日として扱ってはいるが、正確には私がニーナを買った日だ」


「“買った”?」



何よそれ、ニーナちゃんを物みたいに。この組織に雇われたってことよね?



「――彼女は売春婦だった」


さらりと発せられたそれに、思わずエリックさんを見返した。


売春婦に対して軽蔑的意識があるというわけではないけれど、ニーナちゃんがそうであったということは初めて聞いた。



「奴隷だったんだ。ニーナだけじゃない。ブラッドもその兄のジャックもそうだ。あいつらは元々奴隷として売られていた」



周りの五月蠅い話し声が急に遠くなった気がした。



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