マイナスの矛盾定義
そして何よりあの研究は――ブラッドさんにとって重要な人物である“春”に関わることだ。
あの本がこの部屋にあるってことは、ブラッドさんは私の予想以上にあの研究…マーメイドプランについて、細かいところまで知っているということになる。
「何をしてるんです?」
後ろからした声にビクッと体が反応する。
動揺を悟られないように振り返ると、そこには声の主であるブラッドさんが立っていた。
髪が少し湿っている。おそらく5階で入浴してきたのだろう。
「あ…開いていたから、もう帰ってきたのかと思って」
できるだけ自然にそう言うと、ブラッドさんはふふっと柔らかく笑って、もたれ掛かるようにして抱き締めてきた。
「嬉しいです…今日はもう会えないかと思った」
スリスリと私の首筋に顔を埋めるブラッドさん。髪が当たってくすぐったい。
シャンプーの良い匂いがしてきて、気恥ずかしくなった。
「…お疲れ様」
小さい声でそう言うと、ブラッドさんは更に強く抱き締めてくる。
そのままさり気なく書斎へ連れ込もうとしてくるので、力の限り抵抗したけれど、結局は無駄だった。
書斎のドアがパタンと静かに閉まる。
この人、どんどん強引になっていってる気がして怖い。
でも、中に入るとそれよりもあの本が気になってしまって。
けれど今はブラッドさんがいるんだし、勝手に見ることもできず。
もどかしい思いをしながらも、何とか平静を装った。
ブラッドさんは甘えるように私から離れない。
「今日1日、ずっと君のことを考えていた」
「…そう」
「君から離れた途端君が恋しくなるなんて…俺は病気かもしれない」
それは否定しないわ。
「君は俺のこと、少しは考えてくれましたか?」
強請るような視線。
何でそこで私に同意を求めるのよ。
私は少しの間返答に迷った後、話を逸らすようにして口を開いた。
「そういえば…貴方が昔女性に飼われていたって聞いたんだけど、どういう意味?」
答えてもらえることを期待しての問いではない。
ただ、ジャックやエリックさんに聞かされた話を…他の人から聞いて一方的に知ってしまった話をそのまま知り続けるのは、何だかいい気分がしない。
本人の口から少しでも何か聞きたかっただけだった。
――けれど、ブラッドさんはピタリと動きを止めた。
すうっと冷たい目になり、悲しそうな表情で私を見つめた。
「…誰に、そんな話を聞いたんですか」
ドキリと心臓が鳴る。
ジャックから…とは言えない。私が休暇の最中にジャックと会っていたとばれてしまう可能性がある。
「…噂よ」
咄嗟に出た言葉。
ブラッドさんは冷たい声音で、突き放すように言った。
「君には関係のないことです。余計なことは、気にしないで」
今までブラッドさんがこんな風に言ったことはなかった。
そうだ…私は秘書ではあるけれど、彼の過去を知る権利はない。
それを気にする必要もない。
「……貴方って、秘密が多いのね。春さんのこともそうだけど」
ずっと本のことを考えていたせいか、自分でも驚くほどさらりと春の名前が口から出た。
「…春?」
「前に春さんの話をした時、途中で黙り込んだじゃない」
「世の中には知ってはいけないこともあるんですよ。特に春のことは、君には関係ない」
――この時の私は何だか感情的になっていたのかもしれない。
散々私を振り回しておいて、関係ないなんて言って突き放す秘密主義男にむかついていたのかもしれない。
とにかくそれは、
「…じゃあ、私がその“春”だって言ったらどうするのよ」
軽い気持ちで放った言葉だった。
――…一瞬のことだった、ブラッドさんの手が私の後頭部に回ったのは。
抵抗する暇もなく、少し首を傾けた彼の唇が私の物と重なる。
驚いて逃げようとするけれど、その時には既にブラッドさんのもう一方の腕が私の腰に回っていて。
チュッという音がして離れたかと思うと、また啄むようにキスされる。何度も何度も。
下唇を吸われ少しだけ開いたそこに、押し込むようにして入ってきた舌。
どうしたらいいか分からなくなり少しだけ体が震える。隙間から小さな吐息が漏れた。
舌を舌にねっとりと這わされ、舌同士がしつこく絡み、その後上顎をゆっくりなぞられる。
緊張で息の仕方さえも忘れてしまいそうになった。
やっと離れた時、私は大きく息を吐き出した。
そんな私を見て「可愛い」と囁いたブラッドさんは、耳や首筋にもキスを落としていく。
「離して…」
「嫌ですよ、離さない」
「お願い、こういうことはしたくないの」
「君が俺を煽るようなことを言うからだ」
そう言って再び唇を重ねてくる。
その時、自分には既に抵抗する気力がないことに気付いた。
酒に酔うように、私はこの人のキスに酔っている。
でも――この人はきっと、私を“春”の代わりにしているだけ。
「…私は春じゃないわ」
冷たい声音に、ブラッドさんの動きが止まった。
私を引き寄せる手の力も緩まる。
ブラッドさんの体を両手で押し、離れる私。
「貴方の好意が春に向いてるうちは、もう私に触れないで」
私が本気で怒っていることに気が付いたのか、彼はもう私に近付こうとはしなかった。
それを合図に、私は書斎から立ち去る。
私の言葉がどれだけ彼に届いたのかは分からない。
でも、これできっと彼は私に触れてこないだろう。
私としても、これ以上春を見る目で私を見てほしくなかった。
私は灯りが漏れている書斎の方を少しだけ振り向き、溜め息を吐いた。
私は春じゃない。
私は春じゃない。
私は春じゃない。
私は――“もう”、春じゃない。
――同時刻、6階。
「チャロ指揮官!お疲れ様です!」
若いメンバーの1人がアタシに声を掛けてくる。
吸っていた煙草を灰皿に押し付け、近くの小窓を開けた。
「まだ起きてるの?明日も訓練だし、早く寝た方がいいよ」
「それは指揮官も同じことですよ。それに…一部のメンバーからちょっとした噂を聞いたので、報告しておいた方がいいかと思って」
「噂…?」
デスクの上の紙が夜風に触れて揺れる。
「実は、この組織内に――スパイがいるらしいんです」
その言葉に顔を上げ、体ごと動かして話を聞く体勢をとった。
夜の静けさが逆にアタシを落ち着かない気分にさせる。
「どういうこと?誰が言ってたの?根拠は?」
「それは分かりません。みんな誰かに聞いただけらしいですし…根拠もないですけど、何故か広まってて。ただの噂がここまで広まるのは不自然に思えるんです」
そういえば、今日1日みんなソワソワしてたような。
そりゃ、そんな噂が広まってたらそうなるか。
「……分かったわ。教えてくれてありがとう」
単なる噂ならまだいいけど、火の無い所に煙は立たぬって言うしね…。
あの本がこの部屋にあるってことは、ブラッドさんは私の予想以上にあの研究…マーメイドプランについて、細かいところまで知っているということになる。
「何をしてるんです?」
後ろからした声にビクッと体が反応する。
動揺を悟られないように振り返ると、そこには声の主であるブラッドさんが立っていた。
髪が少し湿っている。おそらく5階で入浴してきたのだろう。
「あ…開いていたから、もう帰ってきたのかと思って」
できるだけ自然にそう言うと、ブラッドさんはふふっと柔らかく笑って、もたれ掛かるようにして抱き締めてきた。
「嬉しいです…今日はもう会えないかと思った」
スリスリと私の首筋に顔を埋めるブラッドさん。髪が当たってくすぐったい。
シャンプーの良い匂いがしてきて、気恥ずかしくなった。
「…お疲れ様」
小さい声でそう言うと、ブラッドさんは更に強く抱き締めてくる。
そのままさり気なく書斎へ連れ込もうとしてくるので、力の限り抵抗したけれど、結局は無駄だった。
書斎のドアがパタンと静かに閉まる。
この人、どんどん強引になっていってる気がして怖い。
でも、中に入るとそれよりもあの本が気になってしまって。
けれど今はブラッドさんがいるんだし、勝手に見ることもできず。
もどかしい思いをしながらも、何とか平静を装った。
ブラッドさんは甘えるように私から離れない。
「今日1日、ずっと君のことを考えていた」
「…そう」
「君から離れた途端君が恋しくなるなんて…俺は病気かもしれない」
それは否定しないわ。
「君は俺のこと、少しは考えてくれましたか?」
強請るような視線。
何でそこで私に同意を求めるのよ。
私は少しの間返答に迷った後、話を逸らすようにして口を開いた。
「そういえば…貴方が昔女性に飼われていたって聞いたんだけど、どういう意味?」
答えてもらえることを期待しての問いではない。
ただ、ジャックやエリックさんに聞かされた話を…他の人から聞いて一方的に知ってしまった話をそのまま知り続けるのは、何だかいい気分がしない。
本人の口から少しでも何か聞きたかっただけだった。
――けれど、ブラッドさんはピタリと動きを止めた。
すうっと冷たい目になり、悲しそうな表情で私を見つめた。
「…誰に、そんな話を聞いたんですか」
ドキリと心臓が鳴る。
ジャックから…とは言えない。私が休暇の最中にジャックと会っていたとばれてしまう可能性がある。
「…噂よ」
咄嗟に出た言葉。
ブラッドさんは冷たい声音で、突き放すように言った。
「君には関係のないことです。余計なことは、気にしないで」
今までブラッドさんがこんな風に言ったことはなかった。
そうだ…私は秘書ではあるけれど、彼の過去を知る権利はない。
それを気にする必要もない。
「……貴方って、秘密が多いのね。春さんのこともそうだけど」
ずっと本のことを考えていたせいか、自分でも驚くほどさらりと春の名前が口から出た。
「…春?」
「前に春さんの話をした時、途中で黙り込んだじゃない」
「世の中には知ってはいけないこともあるんですよ。特に春のことは、君には関係ない」
――この時の私は何だか感情的になっていたのかもしれない。
散々私を振り回しておいて、関係ないなんて言って突き放す秘密主義男にむかついていたのかもしれない。
とにかくそれは、
「…じゃあ、私がその“春”だって言ったらどうするのよ」
軽い気持ちで放った言葉だった。
――…一瞬のことだった、ブラッドさんの手が私の後頭部に回ったのは。
抵抗する暇もなく、少し首を傾けた彼の唇が私の物と重なる。
驚いて逃げようとするけれど、その時には既にブラッドさんのもう一方の腕が私の腰に回っていて。
チュッという音がして離れたかと思うと、また啄むようにキスされる。何度も何度も。
下唇を吸われ少しだけ開いたそこに、押し込むようにして入ってきた舌。
どうしたらいいか分からなくなり少しだけ体が震える。隙間から小さな吐息が漏れた。
舌を舌にねっとりと這わされ、舌同士がしつこく絡み、その後上顎をゆっくりなぞられる。
緊張で息の仕方さえも忘れてしまいそうになった。
やっと離れた時、私は大きく息を吐き出した。
そんな私を見て「可愛い」と囁いたブラッドさんは、耳や首筋にもキスを落としていく。
「離して…」
「嫌ですよ、離さない」
「お願い、こういうことはしたくないの」
「君が俺を煽るようなことを言うからだ」
そう言って再び唇を重ねてくる。
その時、自分には既に抵抗する気力がないことに気付いた。
酒に酔うように、私はこの人のキスに酔っている。
でも――この人はきっと、私を“春”の代わりにしているだけ。
「…私は春じゃないわ」
冷たい声音に、ブラッドさんの動きが止まった。
私を引き寄せる手の力も緩まる。
ブラッドさんの体を両手で押し、離れる私。
「貴方の好意が春に向いてるうちは、もう私に触れないで」
私が本気で怒っていることに気が付いたのか、彼はもう私に近付こうとはしなかった。
それを合図に、私は書斎から立ち去る。
私の言葉がどれだけ彼に届いたのかは分からない。
でも、これできっと彼は私に触れてこないだろう。
私としても、これ以上春を見る目で私を見てほしくなかった。
私は灯りが漏れている書斎の方を少しだけ振り向き、溜め息を吐いた。
私は春じゃない。
私は春じゃない。
私は春じゃない。
私は――“もう”、春じゃない。
――同時刻、6階。
「チャロ指揮官!お疲れ様です!」
若いメンバーの1人がアタシに声を掛けてくる。
吸っていた煙草を灰皿に押し付け、近くの小窓を開けた。
「まだ起きてるの?明日も訓練だし、早く寝た方がいいよ」
「それは指揮官も同じことですよ。それに…一部のメンバーからちょっとした噂を聞いたので、報告しておいた方がいいかと思って」
「噂…?」
デスクの上の紙が夜風に触れて揺れる。
「実は、この組織内に――スパイがいるらしいんです」
その言葉に顔を上げ、体ごと動かして話を聞く体勢をとった。
夜の静けさが逆にアタシを落ち着かない気分にさせる。
「どういうこと?誰が言ってたの?根拠は?」
「それは分かりません。みんな誰かに聞いただけらしいですし…根拠もないですけど、何故か広まってて。ただの噂がここまで広まるのは不自然に思えるんです」
そういえば、今日1日みんなソワソワしてたような。
そりゃ、そんな噂が広まってたらそうなるか。
「……分かったわ。教えてくれてありがとう」
単なる噂ならまだいいけど、火の無い所に煙は立たぬって言うしね…。