マイナスの矛盾定義
「そんな嫌そうな顔しないでよ。アリスちゃんはちょーっと僕の“復讐”に手を貸してくれればいいだけなんだから」


……その“復讐”のシナリオに、私が不幸になる結末が入っているのは多分間違いない。


厄介な奴に引っ掛かってしまった。


でも、私は今9階に戻るわけにはいかない。


まだ情報消去が終わってない――…あと数秒は、この体勢のままでいないと。



「……ところでさぁ、アリスちゃん」



ラスティ君が目を細める。



「――その手、何?」


「……っ」


まずい、まずい、まずい。


ラスティ君の視線が私の背に隠れている方の手に向かっている。


あと何秒?早く、早く、早く、早く―――…。
ピーッという音がして、機械から音声が出る。


|《フォルダナイノ ジョウホウガ スベテ ショウキョ サレマシタ》


これ…音声が出るタイプだったのね、なんて頭の片隅で思った。


間に合ったことにほっとして力が抜けた――刹那。ラスティ君の手が私の髪を掴み、勢いよく私の頭を機械へと叩き付ける。



「……ッ、…」



そのまま頭を押さえ付けられ、動くことができない。


痛みに耐えつつ目だけでラスティ君の方を見上げると、彼はタッチパネルを見て舌打ちをしていた。



「ったく、行儀の悪い女だな。驚いたよ、この期に及んでまだ情報消去を続けてたなんてね。褒めてあげる。焦って何も考えられない状態になってると思ってた」



私の頭を押さえ付ける手に力が籠もる。



「その反応…やっぱり全ての情報をどこかにバックアップしてるってわけでもないのね。様を見なさい」


「まぁ、確かに全部を復元するのは難しいかな。やってくれるね」



苛立ちを孕む眼を私に向けてくるラスティ君。
……任務完了。あとはここから逃げるだけだわ。


予定していたような落ち着いた終幕は迎えられないみたいだけど。



「その汚い手を退けて。一度9階に戻るわ」


とりあえずこの状態さえ回避できれば、ラスティ君の目を盗む隙ができる可能性が高い。


流石のラスティ君でも四六時中私を見張っておくことなんてできないはず…。


それに、彼の目的は復讐であって、まだ私のことについて誰かにバラすつもりはないようだし。


バラされる前に何とかして逃げ切る。



「ふーん、まだ強気でいられるんだ?いいね、萌える」


「手を退けてって言ってるでしょ?聞こえないのかしら」



途端にぐいっと髪を掴まれ、上を向かされた。


ラスティ君が私の顔を試すような眼で覗き込む。



「…ゾクゾクしてきた」


意味の分からないことを言ったかと思うと、パッと髪を離される。


機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら室内から出ようとするラスティ君。


私は急いでその後を付いていく。
ここに来る前はラスティ君に油断していた私も、今では彼が不気味に思えて仕方ない。


見慣れてしまって最近は感じなくなっていた異様な雰囲気も、今となっては感じて仕方がない。



何を考えてる?何を感じている?何を謀っている?得体が知れないから不気味なのだ。



廊下を進み、ラスティ君がエレベーターの【9】のボタンを押す。



どうしよう…ここでラスティ君をどうにかして倒すことができれば、私はそのままエレベーターで1階へ下りて逃げることができる。


でも、そんなことは不可能だ。武器を持っているわけではない。


焦るな、まだ動く時じゃない。



ドアが開き、私たちは中へと入った。


お互い無言。ラスティ君の方をチラリと盗み見てみたけれど、こっちがムカついてくるだけなのでやめた。




8階から9階なので、すぐに着く。


ドアが開くと同時に、ラスティ君が携帯を取り出した。


どこに連絡するのだろうか、と過敏に反応してしまう。
「もっしも~し?もうみんな移動し終えたみたいだし、そろそろ止めていいよ、えりりん」



止める…?何を?と電話をするラスティ君に疑問を感じた時、


――すぐ後ろで、ガタンと音がした。



嫌な予感がした。後ろにあるのは、エレベーターだ。


何が起こったのか分からない――いや、分かりたくない。


そんな私に、ラスティ君は意地悪く言葉を放つ。



「エレベーター、スパイ探しが終わるまで止めておくんだよね」



つまり…私は下に行くことができない。



「6階のメンバーを調べ終わったら、今度はそれ以外…食堂で働いてる人間やアリスちゃんも怪しまれることになる。僕も徐々にアリスちゃんがスパイだって断定できるような方向にもっていくつもりだし…早ければ、2日後の夜にでもアリスちゃんは捕まってるんじゃない?」



私の絶望を楽しむように。



「ねぇ、」


ラスティ君が、私の肩に片方の手を置いて囁く。


「僕をもっと萌えさせて?」



その笑みは――まるで玩具の新しい遊び方を知った時のような、純粋な子供の笑みだった。
――何もできないまま、1日が過ぎた。




窓は人が出られるようなサイズじゃないし、エレベーターが止まってるんじゃ動けない。


私はいつも通り何食わぬ顔で秘書としての仕事をし、同時にここから逃げる方法を考えなくてはならなかった。


仕事が終わるとすぐに部屋へ戻り、静かな場所でじっくり考える。


そんなことを繰り返したけれど、解決策は一向に思い浮かばなくて。



そんな時、部屋のドアがノックされた。


「アリス、いますか?」


ドキリと心臓が鳴った。ブラッドさんの声だ。


ブラッドさんは、今私をただの秘書として扱っている。


そんなブラッドさんがわざわざ私の部屋に――…スパイであることを勘付かれた?もしくは、ラスティ君が私のことを報告したとか。


私はおそるおそる部屋のドアを開けた。



見上げると、青色の瞳が私を見下ろしていて。


「入っていいですか」


こちらに聞いているにも関わらず、既に決定しているような言い方。
「……えぇ、どうぞ」


私がそう言うと、ブラッドさんは遠慮する素振りも見せず部屋の中に入ってドアを閉めた。



どうしよう…わざわざ部屋に来るどころか入るレベルの用事なの?


こんな時に、部屋に入らなければ話せないような用事…スパイについての話だとしか思えないんだけど。


暫く何だか気まずい無言が続く。そういえば、こうして2人きりになるのはあの日以来かもしれない。



私がソワソワし始めた頃、ようやくブラッドさんが口を開いた。



「俺なりに反省しました。無理矢理君にキスをしたことを」


「…え」


「俺は確かに、ある人間に飼われていた。でも、そんな自分を君に知られることが怖かった」



顔を上げると、ブラッドさんが真っ直ぐ私を見ていた。



「言われるがままにどんなことでもした。君に軽蔑されるようなことも。そうしなければならなかった」



淡々とした言い方なのに、その眼は私をしっかり捉えている。
「君にこのことを聞かれた時、少なからず俺は動揺した。君に過去の俺を知られることが嫌だと思った。…その結果、平常心を保てず君に手を出した」



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