マイナスの矛盾定義
ゆっくりと私に近付いてくる。
「俺は君に嫌われることが怖かったんだ」
その手が、私の頬に触れた。
「……触れないでって言ったわよね」
「無理です、たえられない」
「……」
「…それに、君だって逃げようとしていない」
私の腰に手が回り、抱くように引き寄せられた。
「どこまでOKですか?」
「…質問の意味が分からないわ」
「許可されたことだけします」
「もうアウトよ」
「嫌ですか」
「嫌っていうか…」
「俺を拒否しないで」
まるで魔法みたいだなんて思った。
囁かれるだけで動けなくなるなんて。
「君が望むなら、何だって教えます。でも、俺を嫌いにならないでほしい」
縋るような声音。そういう言い方をされるときつく言えなくなるのを自覚してるんだかしてないんだか分からないから厄介だ。
「……貴方は過去の自分を嫌われるようなものと思い込んでるみたいだけど…だったら何だって言うの?」
私の言葉に、ブラッドさんが少し反応する。
「私は過去の貴方を知らないし何とも言えないわ。でも、それは1つの線上にある別々の点を同じにしているようなもんよ。過去の貴方と今の貴方は違うでしょう?」
過去の私と、今の私が違うように。
「…少なくとも私は、今の貴方が嫌いじゃないわ」
最後だけ小さな声になったけれど、ブラッドさんはしっかり聞き取ったようで。
ぎゅうううっと更に強く抱き締められた。苦しいくらいに。
「……用はそれだけ?」
「はい。ずっとどう伝えようか悩んでいたんです。…君相手だと、どうも調子が狂う」
少しほっとした。私がスパイだとバレたわけではないようだ。
それにしてもいつまでくっついているんだろう。
「ブラッドさん、そろそろ…」
「…嫌、です」
「……」
「もう少しこのままでいさせてください」
呆れつつも、私は結局それから数十分間黙ってブラッドさんを受け入れた。
この人の腕の中にいると、焦っている自分を少しだけ落ち着かせることができそうだったから。
ブラッドさんは、本当にそれ以上何もしなかった。
―――
―――――
その日の夕方。
仕事部屋には優秀組の3人が揃っていた。ついでに私も。
いつものようにアランに珈琲を淹れていると、ラスティ君がふとテレビの電源を消して溜め息を吐く。
「1日中どこも行けなくてつまんなーい。何かしようよ、何か」
……貴方はもう十分楽しんでるでしょ?
「オセロとトランプならあるぞ」
「そうそう、そういうの。さっすがアラン、分かってんね」
「俺はしねぇからな。面倒臭ぇ」
「えー…。じゃあ…」
ラスティ君の視線がアランに珈琲を手渡す私の方に向く。
私は当然の如く知らんぷり。
自分を陥れようとしている人間と仲良くゲームなんかできるわけないでしょ。
「そうだ、アリスちゃんとぶらりんでオセロしてみてよ」
……そう来たか。そうね、そうだったわね。
こいつは自分がするより他人がしているのを観る方が好きなタイプだった。
まだ返事もしていないのに、ラスティ君はブラッドさんのデスクの上にオセロのセットを置く。
「やるでしょ?ぶらりん」
「…彼女が相手なら」
ブラッドさんも何あっさりOKしてんのよ。一応仕事中なのに。
「んじゃ、アリスちゃん椅子持ってこっち来て~」
ニコニコと手招きするラスティ君。こうなるともう私に拒否権はない。
仕方なく言う通りにブラッドさんのデスクまで移動する。
「ぶらりんは黒、アリスちゃんは白ね。早速始めちゃって」
何で貴方が仕切るわけ?と心の中で文句を言う私と、先手を打つブラッドさん。
オセロなんてやるの久しぶりだわ…昔組織の仲間と暇潰しにやってたくらい。
正直、この手の遊びは得意だ。
じっくり考えてやるならこの中の誰にも負ける気はしないけど…今はそんなことに頭を使ってる場合じゃない。
何も考えず、ただルールに従って円形の駒を置いていく。
こうして私の時間を削って焦らせるのがラスティ君の真の目的かもしれない。
追い詰められているスパイと組織の司令官がオセロ…なかなか異様な光景だ。ラスティ君にジロジロ見られてるせいで集中できないし…。
どんどん、黒の駒が増えていく。
とにかくさっさと終わらせたい。適当に負けてやろう…なんて考えていると、ブラッドさんがじっと私を見てきて。
見返すと、その口角が少しだけ上がった。
「―――負けた側の罰ゲームは何にしますか」
何だか意地の悪い感じの瞳。思わず眉間に皺が寄る。
「待って、そんなのいらないわ」
「そうですか?真剣に俺と勝負をしているようには見えないので、そういうのも必要かと思ったのですが」
「……」
「負けた側が勝った側に“好き”と言うのはどうでしょう?」
普段無表情のブラッドさんが楽しそうに笑っている。
「…それ、完全に私が損じゃない」
既にかなり負けている状況だし…ブラッドさんはそれくらい軽く言えるかもしれないけど、私は言い慣れてないんだから。
「簡単じゃないですか、勝てばいいだけの話ですよ」
平然とそんなことを言うブラッドさんに、愕然とする私とニヤニヤしながらこちらを見ているラスティ君。
私はゆっくりと視線を下ろした。
ここからどうにかして白を増やす…そんなことができるだろうか。
あらゆるパターンを想像してみるけれど、残っている駒じゃもう…。
「罰ゲームっていうのは始める前から決めておくものよ。途中で決めるのは狡いわ」
「真剣にやらない君が悪いんですよ。俺が目の前にいるのに、何故他の事を考えるんです?」
……そんなに分かりやすかったかしら。
これでも多少集中している素振りは見せていたつもりだったのだけど。
私はチラリと壁の時計を見る。
これ以上こんな言い争いで時間ロスするわけにはいかない。
とにかく動かないと…と、白の駒を1つ置く。
しかし、ブラッドさんはその駒とは別の場所で白を黒に変えた。
しまった…やっぱり、今までの流れと駒の位置を把握しておくべきだった。
もう置く場所も残り少ない。
運に任せつつ、私は再び白の駒を置く。
―――結果として。
私は負けた。逆転を試みたものの、ブラッドさんもなかなか強くて出来ず。
あれから白の駒も多少増えたけれど、沢山あるのは圧倒的に黒の駒。
そして何故か今、ブラッドさんの正面に座らされている。
「はーい、罰ゲームたーいむ。残念だったね~アリスちゃん」
腹癒せにラスティ君を殴りたい衝動に駆られるが、何とか抑えた。
「……好き」
全く言い慣れないその言葉。きっと私は、今苦虫を噛み潰したような顔をしているだろう。
チラリとブラッドさんの方を見上げると、笑って満足し――…
「俺は君に嫌われることが怖かったんだ」
その手が、私の頬に触れた。
「……触れないでって言ったわよね」
「無理です、たえられない」
「……」
「…それに、君だって逃げようとしていない」
私の腰に手が回り、抱くように引き寄せられた。
「どこまでOKですか?」
「…質問の意味が分からないわ」
「許可されたことだけします」
「もうアウトよ」
「嫌ですか」
「嫌っていうか…」
「俺を拒否しないで」
まるで魔法みたいだなんて思った。
囁かれるだけで動けなくなるなんて。
「君が望むなら、何だって教えます。でも、俺を嫌いにならないでほしい」
縋るような声音。そういう言い方をされるときつく言えなくなるのを自覚してるんだかしてないんだか分からないから厄介だ。
「……貴方は過去の自分を嫌われるようなものと思い込んでるみたいだけど…だったら何だって言うの?」
私の言葉に、ブラッドさんが少し反応する。
「私は過去の貴方を知らないし何とも言えないわ。でも、それは1つの線上にある別々の点を同じにしているようなもんよ。過去の貴方と今の貴方は違うでしょう?」
過去の私と、今の私が違うように。
「…少なくとも私は、今の貴方が嫌いじゃないわ」
最後だけ小さな声になったけれど、ブラッドさんはしっかり聞き取ったようで。
ぎゅうううっと更に強く抱き締められた。苦しいくらいに。
「……用はそれだけ?」
「はい。ずっとどう伝えようか悩んでいたんです。…君相手だと、どうも調子が狂う」
少しほっとした。私がスパイだとバレたわけではないようだ。
それにしてもいつまでくっついているんだろう。
「ブラッドさん、そろそろ…」
「…嫌、です」
「……」
「もう少しこのままでいさせてください」
呆れつつも、私は結局それから数十分間黙ってブラッドさんを受け入れた。
この人の腕の中にいると、焦っている自分を少しだけ落ち着かせることができそうだったから。
ブラッドさんは、本当にそれ以上何もしなかった。
―――
―――――
その日の夕方。
仕事部屋には優秀組の3人が揃っていた。ついでに私も。
いつものようにアランに珈琲を淹れていると、ラスティ君がふとテレビの電源を消して溜め息を吐く。
「1日中どこも行けなくてつまんなーい。何かしようよ、何か」
……貴方はもう十分楽しんでるでしょ?
「オセロとトランプならあるぞ」
「そうそう、そういうの。さっすがアラン、分かってんね」
「俺はしねぇからな。面倒臭ぇ」
「えー…。じゃあ…」
ラスティ君の視線がアランに珈琲を手渡す私の方に向く。
私は当然の如く知らんぷり。
自分を陥れようとしている人間と仲良くゲームなんかできるわけないでしょ。
「そうだ、アリスちゃんとぶらりんでオセロしてみてよ」
……そう来たか。そうね、そうだったわね。
こいつは自分がするより他人がしているのを観る方が好きなタイプだった。
まだ返事もしていないのに、ラスティ君はブラッドさんのデスクの上にオセロのセットを置く。
「やるでしょ?ぶらりん」
「…彼女が相手なら」
ブラッドさんも何あっさりOKしてんのよ。一応仕事中なのに。
「んじゃ、アリスちゃん椅子持ってこっち来て~」
ニコニコと手招きするラスティ君。こうなるともう私に拒否権はない。
仕方なく言う通りにブラッドさんのデスクまで移動する。
「ぶらりんは黒、アリスちゃんは白ね。早速始めちゃって」
何で貴方が仕切るわけ?と心の中で文句を言う私と、先手を打つブラッドさん。
オセロなんてやるの久しぶりだわ…昔組織の仲間と暇潰しにやってたくらい。
正直、この手の遊びは得意だ。
じっくり考えてやるならこの中の誰にも負ける気はしないけど…今はそんなことに頭を使ってる場合じゃない。
何も考えず、ただルールに従って円形の駒を置いていく。
こうして私の時間を削って焦らせるのがラスティ君の真の目的かもしれない。
追い詰められているスパイと組織の司令官がオセロ…なかなか異様な光景だ。ラスティ君にジロジロ見られてるせいで集中できないし…。
どんどん、黒の駒が増えていく。
とにかくさっさと終わらせたい。適当に負けてやろう…なんて考えていると、ブラッドさんがじっと私を見てきて。
見返すと、その口角が少しだけ上がった。
「―――負けた側の罰ゲームは何にしますか」
何だか意地の悪い感じの瞳。思わず眉間に皺が寄る。
「待って、そんなのいらないわ」
「そうですか?真剣に俺と勝負をしているようには見えないので、そういうのも必要かと思ったのですが」
「……」
「負けた側が勝った側に“好き”と言うのはどうでしょう?」
普段無表情のブラッドさんが楽しそうに笑っている。
「…それ、完全に私が損じゃない」
既にかなり負けている状況だし…ブラッドさんはそれくらい軽く言えるかもしれないけど、私は言い慣れてないんだから。
「簡単じゃないですか、勝てばいいだけの話ですよ」
平然とそんなことを言うブラッドさんに、愕然とする私とニヤニヤしながらこちらを見ているラスティ君。
私はゆっくりと視線を下ろした。
ここからどうにかして白を増やす…そんなことができるだろうか。
あらゆるパターンを想像してみるけれど、残っている駒じゃもう…。
「罰ゲームっていうのは始める前から決めておくものよ。途中で決めるのは狡いわ」
「真剣にやらない君が悪いんですよ。俺が目の前にいるのに、何故他の事を考えるんです?」
……そんなに分かりやすかったかしら。
これでも多少集中している素振りは見せていたつもりだったのだけど。
私はチラリと壁の時計を見る。
これ以上こんな言い争いで時間ロスするわけにはいかない。
とにかく動かないと…と、白の駒を1つ置く。
しかし、ブラッドさんはその駒とは別の場所で白を黒に変えた。
しまった…やっぱり、今までの流れと駒の位置を把握しておくべきだった。
もう置く場所も残り少ない。
運に任せつつ、私は再び白の駒を置く。
―――結果として。
私は負けた。逆転を試みたものの、ブラッドさんもなかなか強くて出来ず。
あれから白の駒も多少増えたけれど、沢山あるのは圧倒的に黒の駒。
そして何故か今、ブラッドさんの正面に座らされている。
「はーい、罰ゲームたーいむ。残念だったね~アリスちゃん」
腹癒せにラスティ君を殴りたい衝動に駆られるが、何とか抑えた。
「……好き」
全く言い慣れないその言葉。きっと私は、今苦虫を噛み潰したような顔をしているだろう。
チラリとブラッドさんの方を見上げると、笑って満足し――…