マイナスの矛盾定義
「あぁ、データの書き換えって言っても名前や年齢、顔写真くらいだから、住所や職歴なんかは元々秘書になる予定だった女性のものよ。勿論その女性はただ買い取っただけの相手だし、こっちの情報は何も知らないわ。残念だったわね」


「……なるほどなぁ。お前がスパイっつーことはよぉく分かった。んで?ここで何してんだ?仲間の助けでも待ってんのか?言っとくけどな、上空から何か来たらすぐに対処すんぞ」


「ふーん。それは面白そうね」


「…他に何か手があるのか?」


「そうね…仲間が魔法でも使って助けに来ると言ったら?」


「その前にお前を捕縛するだけだ」



アランの私を見る眼は、先程までのものじゃない――明確な、敵に対する眼だった。
“捕縛する”ね…なかなか言ってくれるじゃない。


まぁ、魔法じみたことをするのは仲間じゃなく私だけど。



「お前は、どこの組織の人間だ?」


「さぁ?そこまで話す義理はないわ」


「答えろ。撃つぞ」



私は真っ暗な下を一瞥し、アランを嘲笑した。



「貴方は勘違いをしているわね」


「あ?」


「どんな人間でも、殺すと脅せば口を割ると思わないでちょうだい?」



そう言って、微笑んでみせる。



「私の場合、自分が組織の害になるくらいなら――…死んだ方がマシなの」


「……ッおい!やめろ!!」



私が何をするつもりなのか察したのか、アランがこちらに走ってくる。


――残念、少しこちらの方が早いみたい。
私は地面を蹴り、空中へ身を投げ出した。


急降下していく私の身体。


アランが何か叫んでいるのが分かったけれど、その声も風に消える。



――最後に見たのは、月だった。
茶髪の男は焦る。あの高さからでも微かに聞こえたのだ。肉体が地面に打ち付けられる音が。


そして、確かにあの屋上から見たのだ。――飛び降りた女の死体を。




――…しかし、


「ないじゃーん。見間違いじゃないの?暗いし、屋上からじゃよく見えないでしょ」


ない。エレベーターの使用許可を何とか得て、仲間と下まで来たというのに。


女の死体は、どこにもなかった。


地面も、不自然なほど自然で。死体があった様子なんて微塵もない。



「…嘘だろ?」


茶髪の男は呟く。



隣にいる金髪の男は、機嫌が悪そうに、しかしどこか楽しそうに笑みを深めた。


「この短時間で仲間が死体を回収しに来たとしても、地面が綺麗すぎるよね。とりあえず専門の奴らに調べてもらおっか」



そしてそんな男とは裏腹に、黙って地面を見つめる黒髪の男。


まるで何かを確認するかのように。じっと、じっと。


じっとじっとじっとじっとじっとじっと。



そして、確信したかのように呟く。


「――…君だったんですね」



黒髪の男が何を考えているのか、他の2人にはまだ分からない。


ただその表情は――何か愛しい物を見つけたかのような表情だった。
―――
――――――



暗闇の中を黒い車が走る。


車内には、1人の青年と1人の女。



「…迎えって、貴方だったのね」


女が口を開く。



「ちょうど一番近くにいるのが俺だったからね。頼まれたんだ」


男もそれに答える。



女は窓から暗い外を眺め、溜め息を吐いた。



「……失敗したわ」

「ん?」

「きっと、あの人に見限られる」



――…それは、雇い主にだけは弱い部分も見せたくない女の、分かりにくい弱音だった。
青年は少しだけ驚いた顔をして、数秒後にはクスリと笑う。



「Cheer up. 失敗しようがなんだろうが、彼は君を見放したりしないさ」


「何も知らない貴方に言われたくない。私はスパイだってバレたのよ?そのうえ、こうしてあなたの迎えがなかったら逃げられなかったかもしれない」


「意地を張って1人で頑張る方が彼はよっぽど怒ると思うよ」


「…どうしてそんなことが言えるの?」


「彼が君を凄く大切にしていることくらい俺でも分かる。俺に連絡してきた時の彼、随分焦った様子でね。早く君を迎えに行けって。敵地にそこまで近付きたくなかったから1度は断ったんだけど…“行かないと殺す”って脅されちゃって。俺としても二度と君と会えないのは嫌だったし、迎えにきたってわけさ」



女は黙ってしまった。


少なくともさっきの通話では、焦った様子なんて微塵もなかった。


雇い主が自分のことで焦るなんて、想像も付かないのだ。


男はそんな女をバックミラー越しに一瞥し、話を続ける。


「今彼は海外にいるらしくてね。戻ってくるまで暫くは俺の家で預かることになった」



と、そこで。青年はふと気が付いたように再びバックミラーを見る。
「あれ?君、黒髪になってるね」


暗いせいでそう見えているのかと思っていたが、どうやら実際の色らしい。青年は目を細める。



「あぁ…貴方から貰った薬を飲んでから大きな怪我をしたから、強い作用が現れたんじゃないかしら」


そう言って自分の髪に触れる女。



「なるほど、黒い部分は新しく生えた髪ってことか」


「また染めなきゃいけないわね…」



「いいじゃないか、黒髪のままで。そっちも似合ってるよ―――…春」




青年の言葉に、女は眉を顰める。



「…それ、私が嫌がるって知っててわざと言ってるの?」


「さぁ、どうだろう?」


「その名前で呼ばないで。――…随分前に、捨てた名前よ」




不機嫌な女を他所に、確信犯の青年は笑みを深めた。




 ■




“リバディー”


その中でも

桁外れな才能を持つ3人



しかし


その3人ですら
足取りが掴めない
指名手配人がいた



居場所も年齢も詳細も
不明



名前は“春”





分かっていることは――…

―――彼女が“不老不死”だということ








『マイナスの矛盾定義Ⅰ』完結

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