マイナスの矛盾定義




とあるアパートの部屋の中には、2人の男女がいた。



怠そうに椅子に座っている、肩出しトップスを着たメープルブラウン色の髪をした男。


その前方には、肩より10センチほど長い内巻きの黒髪を持つ女。



「研究の進展はあったわけぇ?」



男はそう聞きながら、腕時計で時刻を確認した。



「さぁ…あなたの望むような進展はないと言えるかな。やっぱりあの子本体がいないとね。…でもあなたは、あの子を私に渡すつもりはないんでしょう…?」



女は虚ろな眼を男に向ける。



「あなたのお話からして、優秀なスパイだとも思えないのに…どうして私にくれないの?私にちょうだいよ…ねぇ、お願い…そうしたら、きっとあなたの望みだって叶えてあげられる…」




女は着ている白衣のポケットから、血に汚れた刃物を取り出す。


それは交渉ではなく脅しだった。


しかし男は臆することなく、冷めた眼で女を見返した。
「俺の目的の本質を理解してないみたいだねぇ。まぁ、お前には人の心なんて理解できなくて当たり前か」


「………」


「あの子は確かにスパイには向いてない。でも、あの人間臭さは時に最高のスパイになり得るんだよ。まぁ、本気でスパイの道を極めるならその人間臭さも意図的に出せるようにならなきゃ駄目なんだけど…彼女は別に、そんなものを目指してるわけじゃないからねぇ。一応、肉体的苦痛にはいくらでも耐えられるような訓練はしてあるけど」


「……いやらしい育て方」


「元々拷問じみた実験をしてたのはお前らでしょ?」



男はそう嘲笑って椅子から立ち上がる。



「そろそろ出る時間だ。あの子達がいる国に戻らないと」


「……そう。平然とあの子に会いに行けるんだ…あの子を騙しているくせに」


「騙してでも手に入れたいって気持ち、お前には分かるかなぁ?」


「分かる…私だって、あの子が欲しい」


「研究材料として、でしょ?」


「勿論…あの子以上に優秀な実験動物なんていない…」



恍惚と囁き薄く笑う女。



男はキャリーバッグに手を掛け、帽子を被る。


「俺とお前は似てるよねぇ。自分勝手で、貪欲だ」




 ■



“クリミナルズ”



その犯罪組織のリーダーは、
まだ若い1人の男




実験体であった少女に隠されていることは――…

―――彼の目的が“         ”だということ





 ■



雨音が激しい。


地面に打ち付けられる雨の音だけが聞こえる。


遠くから走ってくる車のタイヤと地面が摩擦される音も、晴れた日のそれとは少し違う。



クーラーの効いた部屋の中で、私はソファに座っていた。


ここで過ごすのも3日目だ。


海外での仕事からなかなか戻れないらしいシャロンに、暫くジャックの元にいろと言われた。


私がクリミナルズに属していると知られている以上、1人で施設に戻るのは危険だと。





「髪、切ろうか?」


ジャックが隣の部屋からトレイに飲み物とロールケーキをのせてやってきた。


私の髪は今、黒色と金色が1:4くらいの状態。


頭から落ちたことで髪に対して特に強い再生能力が働いたのか、随分長くなってしまっている。



「そうね…それがいいかも」


ジャックの問いに対して私はそう答えた。
リバディーの連中は、私を“金髪の女”として認識している。


今までは春であることを隠す為に金髪にしていたけど…少しの間は黒髪の方が安全かもしれない。


今金髪の部分を切ると、黒髪のショートカットになるはずだ。





問題は――…彼らが私が春だということに気付いたかどうか。


ラスティ君は春が不老不死だということを知らないようだった。


いくら優秀組でも、国家機密である不老不死の存在は隠されているらしい。



ただ…ブラッドさんの書斎にあったあの本。


“マーメイドプラン”は私の再生能力についての研究の名前だ。


ラスティ君は、エリックさんとブラッドさんしか春についての詳しいことを知らないと言っていた。



死んだのに指名手配されている理由――そもそも不老不死であるから、何回死のうが死んでいないようなものだ。


国は指名手配なんて言い方を勝手にしてるけど、要は私を捕らえて研究の利益になる実験を再開させたいだけ。



それをエリックさんとブラッドさんが知っているとすると…あの2人だけは私が春だったということに勘付くかもしれない。


特にブラッドさんは、私が春に似ているとずっと言っていた。


そうなると寧ろ黒髪でいる方が危険かしら?


…いや、もし春だと分かっても、“春は黒髪”から“春は現在金髪”という情報に更新されるだけだし、逆に好都合だ。
ジャックがトレイを部屋のテーブルに置き、飲み物が入っているカップにマグキャップをのせ、どこから持ってきたのか散髪用のハサミを取り出した。



「貴方、ちゃんと切れるんでしょうね?」


「当然。これでも女の子の髪は何度も切ったことあるからね」


「それは飼われていたっていう女の人の話?」


「遠慮無く聞くところが君らしいな。…さぁ、ここに座って」



苦笑しながらも、ジャックは私を大きな鏡の前の椅子に移動するよう促す。


何でこんなに準備万端なのかしら…。



「ここって貴方の家?もしかしてその女性もここで切ってたの?」


「まさか。俺は家なんて持ってない、ここは一時的に借りてるだけさ。他にも借りられる家なら何個かあるが、ここは元散髪屋に無理矢理家具を置いて住んでるだけらしくて、まだその時の器具が残ってるって聞いてたからね。髪が長すぎると目立つだろうし、切るならここを借りるのが一番いいと思って」


「あら、私の為にわざわざここを選んでくれたの?」


「勿論。女の子には優しくしないとね」



鏡越しに見た微笑みは、少しだけブラッドさんに似ていた。
兄弟なのに、こっちは脱獄者で向こうはリバディーの司令官。


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