マイナスの矛盾定義
テーブルの周りを囲み、勉強の準備をする私たち。



「ほら、ヤモ。餌持ってきたよ」



語学の本を何冊か鞄から取り出したバズ先生は、最後に虫の入った瓶を取り出した。私がこの瓶を見るのは本日二度目。


しかし、その瓶が出てきた途端にあからさまにビクッとするキャシー。



『オオッありがとナ!』


遠慮なんて知らない爬虫類。



瓶の中で動く虫。


それを見て平静を装いきれていないキャシー。…に、笑顔で瓶を見せつけるバズ先生。



「キャシーもいる?」


「……いるわけないですわ。近付けてこないでくださいまし」


「え?何?虫大好き?直で触りたいって?」


「言ってませんわ!きゃああああ!!来ないでええええええええ!!!」


「酷いね…虫だって生きてるのに…あぁ、より正確に言えば節足動物門汎甲殻類六脚亜門昆虫綱だって生きてるのに。ほら、キャシーならお友達になれるよ」


「これからその友達をヤモに食べさせるんでしょう!?」



叫びながらバズ先生から距離を取るキャシーと、ジリジリと追い詰めるバズ先生。
……バズ先生は、こうしてキャシーをからかっている時が一番活き活きしている。


虫を集めているのも、善意からヤモに餌を与える為ではなく…多分キャシーを虐める為だ。



私はバズ先生にある種の恐怖を感じながらも、2人に構わず語学の本を手に取った。


まずは色々な国の言葉の基本表現から…目指すところは会話。


仕事がない間の暇潰しにもちょうどいい。


不本意だけど、ちょうど語学に長けている人間がこの場にいるわけだし…少し分かってきたら後で試しに外国語で何か話し掛けてみようかしら。




と、そんなことを考えていた時。


後ろからヒョイとバズ先生の持ってきてくれた本を奪われる。



「へぇ、言語の勉強するんだ?目的にも寄るけど、この文法書を最初から読むのは非効率的だと思うよ」



いつの間に後ろにいたのか、ジャックは私から奪った本をパラパラ捲ってそう言った。



すると、さっきまで全力でキャシーを虐めていたバズ先生が少しムッとしてジャックに反論する。



「それはボクが持ってる中で一番説明が上手いし、それさえあれば自分で勉強することもできる。部外者に口出しされたくないね」


「ふーん。でもこれ難しすぎるのも入ってない?アリスは別に外国の論文が読みたいとかじゃないだろ?」


「え、ええ…会話できたらそれで良いけど…」



聞かれたので反射的に答えてしまう。


ジャックは勝ち誇ったような顔でバズ先生を見た。
「ほらね。その程度ならわざわざお堅い文法書を読むより実際使いながら慣れる方が早い。何ならアリス、俺が教えようか?そっちのお嬢さんも」



その視線の先にはキャシーがいる。


ちょっと、ヤモもいるでしょ。

わざわざ女の子だけって下心が見え見えなのよ。



「余計なお世話だよ。全員ボクが教えるから口出ししないで。それに、基本が分かってないとそもそも使えないでしょ」



キャシーにまで声を掛けられたのが気に入らないのか、少々乱暴にジャックから文法書を奪ったバズ先生。



「君には聞いてないんだけどな。どう?2人共」


「…私は結構よ、たまに実践として付き合ってもらうくらいで」



確かにジャックは言語能力に長けているけれど、教えることに向いているかは分からない。


私にとって一番理解しやすい説明をしてくれるのは、今も昔もバズ先生のはずだ。



「残念。じゃあ、そっちは?」


「…そう、ですわね…」



チラリと横目にバズ先生の持っている虫の瓶を見るキャシー。



部外者だけれど優しそうなお兄さんと、仲間だけれど虫を使って虐めてくるお兄さん。


葛藤するのも無理はない。
「俺なら優しく教えてあげるよ?」



“俺なら”という部分をさり気なく強調するジャック。




「えっと…」


「キャシー、惑わされないで。隙を見せたら口説かれるわよ」


「っわ、分かってますわ!私はバズ君に教えてもらいますのでお気遣いなく!」



私の言葉に、キャシーはハッとしたようにジャックを睨む。


隣のバズ先生は満足そうな表情を浮かべていた。



一方ジャックはつまらなさそうで。



「酷いなぁ、アリス。少しは仲良くさせてくれたっていいじゃないか」


「こっちにちょっかい出してこないで。出入りを許されたからって何でもして良いわけじゃないわ」


「そろそろその警戒心を解いてほしいんだけどな。……仕方ない、なら俺は大人しくシャロン君と酒でも飲むことにするよ」



苦笑した後、振り返ってにこりとシャロンへ笑い掛ける。
「…俺、飲むなんて言ってないんだけどぉ?」


「いいからいいから。大の男2人が一緒にいるのに飲まない方が変だろ?」


「自分の常識を押し付けないでくれるぅ?それに酒なんて…」


「さっきそこの冷蔵庫に入ってたじゃないか。勿体ぶるなよ」


「……」



シャロンは面倒そうに頭を押さえ、冷蔵庫から勝手にお酒を出してくるジャックを見て溜め息を吐いた。



私は遠目にそんな2人の様子を見つつ、ジャックのアドバイス通り文法書ではない本も手に取った。リスニングの用の本だ。


できるだけ短期間で、ある程度外国人とも話せる能力を身に付けたい。


不本意だけれどジャックの意見も取り入れよう。



言語の勉強をして国内の多言語を話す人とも会って、あの研究の情報を集めていく。


そして、私の体内を汚染し続ける毒薬を取り除くんだ。
―――気付けば、周りから静かな寝息が聞こえていた。


部屋に響くのは時計の音。


既に日付が変わっている。


ヤモは爆睡しているし、さっきまで私に文法の基本を教えてくれていたバズ先生も、キャシーの上に伸し掛かって寝ている。

キャシーはちょっと苦しそう。


みんな部屋に戻らないうちに寝ちゃったのね。


集中してて気付かなかった…。



ジャックはもう帰ったのかしら?と向こう側に視線を向けた時――

後ろから、重たい物が覆い被さった。


冷えた体に感じる温かい体温。

振り向かなくても誰か分かってしまう。



「…どうしたの、シャロン」



周りを起こさないよう、ボリューム小さめの声で聞く。


シャロンは返事もせず、スリスリと私の首筋に頬を擦り寄せた。


何だか様子がおかしい。


いつもより怠そうというか…私に預ける体重の割合が多いというか。



…そういえばお酒飲んでたわね。



「大丈夫?必要なら水持ってくるわよ」
返事がない。


私の声聞こえてるのかしら…と思い軽く頬に触れると、シャロンの手が私のお腹に回る。


ぎゅううっと締め付けられ苦しくなった。



「……………アリス」


ぼそりと、妙に弱々しい声が耳元で響く。



「俺から離れないで…この先ずっと」


…やっぱり酔ってる。いつもならこんなこと言わないのに。




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