マイナスの矛盾定義
「アリスを傷付けたい…一生残る傷を付けたい。泣き叫ぶ声が聞きたい。その声が嗚咽になってから、壊れるほど抱きたい。手足折って縛り付けて、絶対に俺から逃げられないようにしたい…誰にも渡さない、渡したくない…アリスは俺が見つけた。俺が拾ったんだから俺だけの物でしょお?」
譫言のように、少しだけ楽しそうに、将来の夢を話す子供のように、そんなことを言う。
私は何も答えられず、ただ黙っていた。
数分間私を強く抱き締めていたシャロンの力は徐々に緩くなり、静かな寝息が聞こえてくる。
私は彼を起こさないようにそっと隣に寝転ばせ、羽織っていた薄手のカーディガンを上に乗せた。
その時、静かな足音が近付いてきて。
「お疲れ様」
クスクスと笑いながら、珈琲を淹れたカップを差し出される。
シャロンと一緒に飲んでいたはずなのに、全く酔っている様子のないジャック。
「…これから寝るのに」
「カフェラテだし、カフェインは少ないよ。それにまだ寝ないだろ?」
「…まぁね。貴方が帰るまでは寝ない」
「何もしないのに」
「信用できないって言ったでしょ」
私の言葉にジャックは今日何度目かの苦笑をし、私の隣に腰を下ろした。
日付が変わっているから今日1度目と言うべきかしら。
「愛されてるね」
シャロンの私に対する扱いのことを言っているのだろう。
「…愛というより、物への頓着に近い気がするわ」
“自分の思い通りにならないと落ち着かない”。
シャロンにとって私はきっとそういう存在。
私のことはとことん把握したがるけれど、自分のことを私に把握させようとはしない。
私達は同じ場所にいるようでいて、少しずれている気がする。
お互い別の方向を向いているのだ。
謂わばねじれの位置――交わることはない。
「……悲しい人。愛を知らないのよ」
ポツリと放った哀れみの言葉は、独白のように消えていった。
「それが普通だと思うけどね。俺だって…愛なんて何だか分からない」
「…貴方は違うでしょう」
ジャックは可笑しそうにくすりと笑う。
「俺の何を知ってるの?」
夜独特の静けさに包まれる。
嗚呼、まただ。
また分かりやすく距離を置かれたような気がした。
表情一つ変えずに冷たい声音で放たれた言葉。
私は彼をわざわざ自分に近付けはしないけれど、彼はもっと明確に線を引く。
自分の領域に入らせようとはしない。
「…なんてね。そろそろ帰るよ」
沈黙を破ったのはジャックだった。
冗談めかして立ち上がり、ドアへ向かいながら私にひらひらと手を振る。
私は暫くその後ろ姿を眺めていたけれど、出て行く直前に声を掛けた。
「…今度、貴方の話が聞きたいわ」
周りを起こさないよう静かに放った言葉。
届いたのか届いていないかは分からない。
ジャックは私を振り返って「Sleep well.」と囁き、少しだけ笑った。
チリンチリン。
重たい瞼を開けると、窓の傍で風鈴が揺れている。
蒸し暑さに不快になりながらも体を起こし、電気スタンドの隣にある語学の本をちらりと見た。
できるだけ早く基礎を固めて…あとは色々な人への聞き込みと、ジャックを通じて研究の情報を得ることが重要になってくる。
軽く伸びをしてから、部屋にある洗面所へと顔を洗いに向かった。
今日の朝食は何にしようかしら…リバディーのとこの食堂で美味しい物ばかり食べていたせいか、普通の料理では満足できなくなってしまった気がする。
あの組織にいると贅沢思考になるわね…。危ない危ない。
顔を洗い終わり、パステルカラーのレイヤーワンピースに着替え、トーストでも食べようと棚から食パンの袋を出す。
何となく、ブラッドさんと食べた朝食を思い出した。
……きっと彼と会うことはもう二度とない。
“春”を好きになった男の人。
ずっと想い続けていた人。
そして、“私”に対しても好きだと言った人。
彼には悪いことをした。
いや、彼だけでなく…私のことを普通の秘書だと思い親しくしてくれた人たちには、悪かったと思ってる。
窓の外には青い青い、シンフォニーブルーの空が広がっていて――不思議と物悲しく見えた。
と、その時。
部屋のドアがノックされた。
4回ノックじゃない…ってことは、シャロンじゃないわね。
誰かしら?
まだ開けていない食パンの袋をキッチンに置き、入り口の方へ向かう。
ドアを開けると、そこには昨日の夜…いや、今日別れたばかりの顔があって。
「Bonjoir. 朝食はもう食べた?」
「……」
何で当たり前のように来てるのよ。
遠慮しようとか思わないわけ?なんて、色々と文句を言いたいところ。
まぁ…こいつとはゆっくり話して研究の情報を得たいと思っているし、頻繁に来てくれるならその分楽かしらね。
溜め息を吐く私を気にもせず、ジャックは軽いノリで私を誘う。
「シャロン君の部屋で冷や麦でも食べない?夏らしくていいかなって思ったんだけど」
「……そうね。ちょうどまだ何も食べてないわ」
シャロンの部屋で、ってところがなかなか立場を弁えてるじゃない。
私は気軽に部屋に入れるほどジャックのことを信用していない。
その分、シャロンの部屋なら安全だ。
食パンはまだ袋から出していないし、このまま行っても問題ないだろう。
部屋から出て、ジャックと共にシャロンの元へ向かう。
どうやら私の歩調に合わせてくれているようで少しゆっくりめ。
合わせてもらっていることになかなか気付かない程自然な動きだ。
やっぱり慣れてるわね…なんて思いながら、ガラス張りの渡り廊下を歩く。
暫く行くと、シャロンの部屋が見えてきた。
ノックして入れば、シャロンはいつもの如く怠そうにソファに座っていて。
袖をロールアップさせたカジュアルシャツを着て、足を組んでいる。
シャロンは私を見てポンポンと自分の隣のスペースを軽く叩き、来いと合図した。
「おはよぉ。よく眠れたぁ?」
「それなりに」
「うーそ。まだ眠いでしょお?眠そうな顔してる」
「そのうち覚めるわ」
片方のソファには私とシャロン、向かいのソファにはジャック。
テーブルの上に並べられている冷や麦を早速食べようとすると、ジャックに唐突な質問をされた。
「これ、どうやって持つの?」
その視線は真っ直ぐお箸の方向を向いていて。
「親に教わらなかったの?意外ね」
アジアの文化だし知らなくて当たり前かもしれないけど。
「そこまでは教えられてないよ」
「ふーん…わざわざ子供に他国の言語を教えるくらいなら文化も教えてるかも、なんて勝手な想像してたわ」
譫言のように、少しだけ楽しそうに、将来の夢を話す子供のように、そんなことを言う。
私は何も答えられず、ただ黙っていた。
数分間私を強く抱き締めていたシャロンの力は徐々に緩くなり、静かな寝息が聞こえてくる。
私は彼を起こさないようにそっと隣に寝転ばせ、羽織っていた薄手のカーディガンを上に乗せた。
その時、静かな足音が近付いてきて。
「お疲れ様」
クスクスと笑いながら、珈琲を淹れたカップを差し出される。
シャロンと一緒に飲んでいたはずなのに、全く酔っている様子のないジャック。
「…これから寝るのに」
「カフェラテだし、カフェインは少ないよ。それにまだ寝ないだろ?」
「…まぁね。貴方が帰るまでは寝ない」
「何もしないのに」
「信用できないって言ったでしょ」
私の言葉にジャックは今日何度目かの苦笑をし、私の隣に腰を下ろした。
日付が変わっているから今日1度目と言うべきかしら。
「愛されてるね」
シャロンの私に対する扱いのことを言っているのだろう。
「…愛というより、物への頓着に近い気がするわ」
“自分の思い通りにならないと落ち着かない”。
シャロンにとって私はきっとそういう存在。
私のことはとことん把握したがるけれど、自分のことを私に把握させようとはしない。
私達は同じ場所にいるようでいて、少しずれている気がする。
お互い別の方向を向いているのだ。
謂わばねじれの位置――交わることはない。
「……悲しい人。愛を知らないのよ」
ポツリと放った哀れみの言葉は、独白のように消えていった。
「それが普通だと思うけどね。俺だって…愛なんて何だか分からない」
「…貴方は違うでしょう」
ジャックは可笑しそうにくすりと笑う。
「俺の何を知ってるの?」
夜独特の静けさに包まれる。
嗚呼、まただ。
また分かりやすく距離を置かれたような気がした。
表情一つ変えずに冷たい声音で放たれた言葉。
私は彼をわざわざ自分に近付けはしないけれど、彼はもっと明確に線を引く。
自分の領域に入らせようとはしない。
「…なんてね。そろそろ帰るよ」
沈黙を破ったのはジャックだった。
冗談めかして立ち上がり、ドアへ向かいながら私にひらひらと手を振る。
私は暫くその後ろ姿を眺めていたけれど、出て行く直前に声を掛けた。
「…今度、貴方の話が聞きたいわ」
周りを起こさないよう静かに放った言葉。
届いたのか届いていないかは分からない。
ジャックは私を振り返って「Sleep well.」と囁き、少しだけ笑った。
チリンチリン。
重たい瞼を開けると、窓の傍で風鈴が揺れている。
蒸し暑さに不快になりながらも体を起こし、電気スタンドの隣にある語学の本をちらりと見た。
できるだけ早く基礎を固めて…あとは色々な人への聞き込みと、ジャックを通じて研究の情報を得ることが重要になってくる。
軽く伸びをしてから、部屋にある洗面所へと顔を洗いに向かった。
今日の朝食は何にしようかしら…リバディーのとこの食堂で美味しい物ばかり食べていたせいか、普通の料理では満足できなくなってしまった気がする。
あの組織にいると贅沢思考になるわね…。危ない危ない。
顔を洗い終わり、パステルカラーのレイヤーワンピースに着替え、トーストでも食べようと棚から食パンの袋を出す。
何となく、ブラッドさんと食べた朝食を思い出した。
……きっと彼と会うことはもう二度とない。
“春”を好きになった男の人。
ずっと想い続けていた人。
そして、“私”に対しても好きだと言った人。
彼には悪いことをした。
いや、彼だけでなく…私のことを普通の秘書だと思い親しくしてくれた人たちには、悪かったと思ってる。
窓の外には青い青い、シンフォニーブルーの空が広がっていて――不思議と物悲しく見えた。
と、その時。
部屋のドアがノックされた。
4回ノックじゃない…ってことは、シャロンじゃないわね。
誰かしら?
まだ開けていない食パンの袋をキッチンに置き、入り口の方へ向かう。
ドアを開けると、そこには昨日の夜…いや、今日別れたばかりの顔があって。
「Bonjoir. 朝食はもう食べた?」
「……」
何で当たり前のように来てるのよ。
遠慮しようとか思わないわけ?なんて、色々と文句を言いたいところ。
まぁ…こいつとはゆっくり話して研究の情報を得たいと思っているし、頻繁に来てくれるならその分楽かしらね。
溜め息を吐く私を気にもせず、ジャックは軽いノリで私を誘う。
「シャロン君の部屋で冷や麦でも食べない?夏らしくていいかなって思ったんだけど」
「……そうね。ちょうどまだ何も食べてないわ」
シャロンの部屋で、ってところがなかなか立場を弁えてるじゃない。
私は気軽に部屋に入れるほどジャックのことを信用していない。
その分、シャロンの部屋なら安全だ。
食パンはまだ袋から出していないし、このまま行っても問題ないだろう。
部屋から出て、ジャックと共にシャロンの元へ向かう。
どうやら私の歩調に合わせてくれているようで少しゆっくりめ。
合わせてもらっていることになかなか気付かない程自然な動きだ。
やっぱり慣れてるわね…なんて思いながら、ガラス張りの渡り廊下を歩く。
暫く行くと、シャロンの部屋が見えてきた。
ノックして入れば、シャロンはいつもの如く怠そうにソファに座っていて。
袖をロールアップさせたカジュアルシャツを着て、足を組んでいる。
シャロンは私を見てポンポンと自分の隣のスペースを軽く叩き、来いと合図した。
「おはよぉ。よく眠れたぁ?」
「それなりに」
「うーそ。まだ眠いでしょお?眠そうな顔してる」
「そのうち覚めるわ」
片方のソファには私とシャロン、向かいのソファにはジャック。
テーブルの上に並べられている冷や麦を早速食べようとすると、ジャックに唐突な質問をされた。
「これ、どうやって持つの?」
その視線は真っ直ぐお箸の方向を向いていて。
「親に教わらなかったの?意外ね」
アジアの文化だし知らなくて当たり前かもしれないけど。
「そこまでは教えられてないよ」
「ふーん…わざわざ子供に他国の言語を教えるくらいなら文化も教えてるかも、なんて勝手な想像してたわ」