シノミヤ楽器店のひととき
進む道
奏音さんと出会ってから四か月ほどが経ち、音楽や美術などの芸術に興味を持った私は、いろいろ調べて考えて、国際文化を学ぶことのできる、近くの大学を受験しようと決めた。
そのためには、奏音さんとのレッスンも受験が終わるまで来ることができないと伝えなければ。今度のレッスンで話をしよう。
そう思っていたのだけれど。
奏音さんと会えるこの時間が、なくなってしまう。もっとこの時間が長く続いてほしい。
と甘えが出てしまって、なかなか話ができなかった。
そのまま日は過ぎてしまい、9月12日。私の誕生日の前日になってしまった。
今日は水曜日なので、シノミヤ楽器店に向かう。昨日作ったお菓子は、甘くてほろっと口の中で溶けるような、スノーボールクッキーだ。
「こんにちはー」
いつも通りに店に入る。
「いらっしゃい。待ってたよ」
いつも通りの、ふわっとした優しい笑顔で奏音さんが迎えてくれた。
「これ、今日はスノーボールクッキーです」
「いつもありがとう。後で紅茶といただくね」
レッスンが始まる。今日は、「G線上のアリア」の仕上げだ。
心地良い低音が店内に響く。
初めて弾いたときに比べると、音色も構えも自然で美しいものになっていて、レベルアップするたびに奏音さんはたくさん褒めてくれるのだ。
でも、そんな日々ももうすぐ終わり。
G線上のアリアをつまずかずに弾けるまで、いつもよりちょっと長めにレッスンしてもらった。
レッスン後のお茶タイムが始まった。
「ねえ、明日学校が終わった後、時間ある?おいしいケーキ屋さん知ってるんだけど、よかったらいっしょにお誕生日お祝いしたいなって思って」
「え、いいんですか?嬉しいです。ありがとうございます!
「いえいえ、僕もお祝いしてもらったから。5時半にここ待ち合わせでもいい?」
「はい、大丈夫です。楽しみにしてますね!」
その後もスイーツやケーキ屋さんの話で盛り上がりながら、明日、進路のことを話そう、そう決意して、私は店を後にした。
そして迎えた誕生日。そわそわしながらシノミヤ楽器店に向かい、奏音さんと一緒に商店街のケーキ屋さんに入った。
「ここのケーキ、どれも絶品だから。僕はこのショコラケーキが大好物なんだよねー」
「そうなんだ、じゃあ私も同じのがいいです!」
「そっか、じゃあこれふたつ頼もう」
しばらくして、ケーキを受け取り席に着くと、奏音さんが少し硬い表情になった。
「実はね、今日優波ちゃんに言わなきゃいけないことがあって」
奏音さんの表情から、少し嫌な予感がした。
「ヨーロッパに修行に行くことにしたんだ。だから三日後、日本を出る」
ヨーロッパ?修行?三日後?
呆然としている私の前で、奏音さんはさらに話を続ける。
「一か月くらい前、おじいちゃんにがんが見つかって。命に問題はないし、手術すればすぐに治るレベルだから大丈夫だったんだけど。でもそのとき、もしおじいちゃんに何かあったらシノミヤ楽器店はどうなるんだろう?って考えたんだ。僕はおじいちゃんみたいなすごい技術を、何も持ってない。でも、この店にはおじいちゃんの技術を必要として来店してきてくださるお客さんたちがたくさんいる。その人達のためになにかできるのは、おじいちゃんがいなくなったら僕しかいないんだ。だから、ヨーロッパでおじいちゃんと同等の技術を身に着けることができるまで、修行することにしたんだ」
奏音さんの気持ちはよくわかった。でも…
「何で、もっと早く、教えてくれなかったんですか…?」
お店のために、自分の目標にために旅立つ奏音さんを、応援しなきゃいけない。困らせちゃいけない。
でも、いくらこらえても涙を我慢することができなかった。
「ごめんね、泣かないで…」
奏音さんが困ってる。
「もうひとつ、聞いてほしいことがあるんだ」
奏音さんはそう言って、持っていたバッグからお店の鍵と、小さな箱を取り出した。
「何年かかるかわからないけど、出来るだけ早く戻ってくるから、優波ちゃんにこれを預かってほしいんだ」
私は混乱して、奏音さんを見つめる。
奏音さんは、箱からヴァイオリンを模した小さなモチーフのついた、ネックレスを取り出した。
私の背後にまわって、奏音さんがネックレスを私に着けてくれる。
「これ、オーダーメイドでお揃いなんだ」
奏音さんが自分の首元から、同じネックレスを見せた。
「一人前の楽器になって帰国して、優波ちゃんを迎えに行きたい。それまで、待っててくれないかな…?」
奏音さんまで泣きそうになっていた。
悲しいとか、寂しいとか、嬉しいとか、いろんな感情がごちゃまぜになって私を襲う。
しばらく時間をかけて泣き止んだ私も、奏音さんに進路を伝える。
「私、奏音さんに出会ってから今までと違う世界を見て、もっと学びたいと思えることに出会えたんです。だから、国際文化を学べる近くの大学を、受験するんです」
「そっか…やりたいことが見つかったんだね…よかった…」
奏音さんが少し笑顔を見せてくれた。
「だから、私も奏音さんのこと、ずっと応援します。だから…何年でも、待ち続けます…」
奏音さんは、声にならない声で
「ありがとう」
ととびきりの笑顔を見せてくれた。
この後の会話は、あまり覚えていない。なんだかふわふわしてしまって、頭が上手く働かなかった。
何で大事な報告をもっと早くしてくれなかったのか、という問いについては、
「21歳の僕が、成人前の優波ちゃんに手を出しちゃだめだから。報告の仕方が、これ以上思いつかなかった。ごめんね」
と返されてしまった。
盲点である。自分の愚かさと幼さを、同時に味わった気分になった。
そして、三日後。
ヨーロッパに旅立つ奏音さんを見送るため、私は空港に来ていた。
「お見送り、ありがとう。行ってきます」
そう言って、奏音さんは優しく、私にキスをしてくれた。
真っ赤になってしまった私は、
「早くいかないと、遅れちゃいますよ。ずっと待ってますから、早く行って戻ってきてください」
とあまり可愛くない対応をしてしまった。
ふふ、と笑って、奏音さんは搭乗口に向かっていった。
飛行機が空へ飛び立つ。
私の、かけがえのないシノミヤ楽器店のひとときは、奏音さんにもらったネックレスと鍵に、たくさんつまっているみたいだった。
そのためには、奏音さんとのレッスンも受験が終わるまで来ることができないと伝えなければ。今度のレッスンで話をしよう。
そう思っていたのだけれど。
奏音さんと会えるこの時間が、なくなってしまう。もっとこの時間が長く続いてほしい。
と甘えが出てしまって、なかなか話ができなかった。
そのまま日は過ぎてしまい、9月12日。私の誕生日の前日になってしまった。
今日は水曜日なので、シノミヤ楽器店に向かう。昨日作ったお菓子は、甘くてほろっと口の中で溶けるような、スノーボールクッキーだ。
「こんにちはー」
いつも通りに店に入る。
「いらっしゃい。待ってたよ」
いつも通りの、ふわっとした優しい笑顔で奏音さんが迎えてくれた。
「これ、今日はスノーボールクッキーです」
「いつもありがとう。後で紅茶といただくね」
レッスンが始まる。今日は、「G線上のアリア」の仕上げだ。
心地良い低音が店内に響く。
初めて弾いたときに比べると、音色も構えも自然で美しいものになっていて、レベルアップするたびに奏音さんはたくさん褒めてくれるのだ。
でも、そんな日々ももうすぐ終わり。
G線上のアリアをつまずかずに弾けるまで、いつもよりちょっと長めにレッスンしてもらった。
レッスン後のお茶タイムが始まった。
「ねえ、明日学校が終わった後、時間ある?おいしいケーキ屋さん知ってるんだけど、よかったらいっしょにお誕生日お祝いしたいなって思って」
「え、いいんですか?嬉しいです。ありがとうございます!
「いえいえ、僕もお祝いしてもらったから。5時半にここ待ち合わせでもいい?」
「はい、大丈夫です。楽しみにしてますね!」
その後もスイーツやケーキ屋さんの話で盛り上がりながら、明日、進路のことを話そう、そう決意して、私は店を後にした。
そして迎えた誕生日。そわそわしながらシノミヤ楽器店に向かい、奏音さんと一緒に商店街のケーキ屋さんに入った。
「ここのケーキ、どれも絶品だから。僕はこのショコラケーキが大好物なんだよねー」
「そうなんだ、じゃあ私も同じのがいいです!」
「そっか、じゃあこれふたつ頼もう」
しばらくして、ケーキを受け取り席に着くと、奏音さんが少し硬い表情になった。
「実はね、今日優波ちゃんに言わなきゃいけないことがあって」
奏音さんの表情から、少し嫌な予感がした。
「ヨーロッパに修行に行くことにしたんだ。だから三日後、日本を出る」
ヨーロッパ?修行?三日後?
呆然としている私の前で、奏音さんはさらに話を続ける。
「一か月くらい前、おじいちゃんにがんが見つかって。命に問題はないし、手術すればすぐに治るレベルだから大丈夫だったんだけど。でもそのとき、もしおじいちゃんに何かあったらシノミヤ楽器店はどうなるんだろう?って考えたんだ。僕はおじいちゃんみたいなすごい技術を、何も持ってない。でも、この店にはおじいちゃんの技術を必要として来店してきてくださるお客さんたちがたくさんいる。その人達のためになにかできるのは、おじいちゃんがいなくなったら僕しかいないんだ。だから、ヨーロッパでおじいちゃんと同等の技術を身に着けることができるまで、修行することにしたんだ」
奏音さんの気持ちはよくわかった。でも…
「何で、もっと早く、教えてくれなかったんですか…?」
お店のために、自分の目標にために旅立つ奏音さんを、応援しなきゃいけない。困らせちゃいけない。
でも、いくらこらえても涙を我慢することができなかった。
「ごめんね、泣かないで…」
奏音さんが困ってる。
「もうひとつ、聞いてほしいことがあるんだ」
奏音さんはそう言って、持っていたバッグからお店の鍵と、小さな箱を取り出した。
「何年かかるかわからないけど、出来るだけ早く戻ってくるから、優波ちゃんにこれを預かってほしいんだ」
私は混乱して、奏音さんを見つめる。
奏音さんは、箱からヴァイオリンを模した小さなモチーフのついた、ネックレスを取り出した。
私の背後にまわって、奏音さんがネックレスを私に着けてくれる。
「これ、オーダーメイドでお揃いなんだ」
奏音さんが自分の首元から、同じネックレスを見せた。
「一人前の楽器になって帰国して、優波ちゃんを迎えに行きたい。それまで、待っててくれないかな…?」
奏音さんまで泣きそうになっていた。
悲しいとか、寂しいとか、嬉しいとか、いろんな感情がごちゃまぜになって私を襲う。
しばらく時間をかけて泣き止んだ私も、奏音さんに進路を伝える。
「私、奏音さんに出会ってから今までと違う世界を見て、もっと学びたいと思えることに出会えたんです。だから、国際文化を学べる近くの大学を、受験するんです」
「そっか…やりたいことが見つかったんだね…よかった…」
奏音さんが少し笑顔を見せてくれた。
「だから、私も奏音さんのこと、ずっと応援します。だから…何年でも、待ち続けます…」
奏音さんは、声にならない声で
「ありがとう」
ととびきりの笑顔を見せてくれた。
この後の会話は、あまり覚えていない。なんだかふわふわしてしまって、頭が上手く働かなかった。
何で大事な報告をもっと早くしてくれなかったのか、という問いについては、
「21歳の僕が、成人前の優波ちゃんに手を出しちゃだめだから。報告の仕方が、これ以上思いつかなかった。ごめんね」
と返されてしまった。
盲点である。自分の愚かさと幼さを、同時に味わった気分になった。
そして、三日後。
ヨーロッパに旅立つ奏音さんを見送るため、私は空港に来ていた。
「お見送り、ありがとう。行ってきます」
そう言って、奏音さんは優しく、私にキスをしてくれた。
真っ赤になってしまった私は、
「早くいかないと、遅れちゃいますよ。ずっと待ってますから、早く行って戻ってきてください」
とあまり可愛くない対応をしてしまった。
ふふ、と笑って、奏音さんは搭乗口に向かっていった。
飛行機が空へ飛び立つ。
私の、かけがえのないシノミヤ楽器店のひとときは、奏音さんにもらったネックレスと鍵に、たくさんつまっているみたいだった。