このたび、夫婦になりました。ただし、お仕事として!
 振り向いた櫂が、咲穂の腰をグッと抱き寄せる。今度は広い胸板に頬がぶつかった。高級そうなトワレの香りに包まれて、心臓が騒ぎ出す。

「あ、あの?」

 こんな至近距離は……まだ全然なじまなくて、咲穂は一瞬で余裕をなくす。
 長い指が咲穂の顎をすくった。

「君の下手くそすぎる演技には……荒療治が必要かもな」
「――え?」

 芸術品のような顔面が近づいてくる。長い睫毛に縁どられた、綺麗な瞳の真ん中にオロオロする自分が映っていた。

(嘘でしょ……キスは契約違反のはずで……)

 拒む権利はたしかに持っているのに、魔法にかけられたように動けなかった。思わず固く目をつむったその瞬間、鼻に違和感を覚える。

「え、え?」

 すぐに目を開けた咲穂は、違和感の正体を理解した。意地悪な笑みを浮かべた櫂が、咲穂の鼻をムギュッとつまんでいるのだ。

「――キス、されると思った?」

 手を離しながら、彼はニヤリと口角をあげる。

「今の顔はなかなかよかった。ちゃんと俺に恋してるように見えたぞ」
「あ、あ、あのですねぇ」

 文句は山ほどあるものの、とっさには言葉が出てこない。

(悪い人じゃないかもって騙されかけたけど……とんでもない性悪だ!)

 櫂の大きな手が咲穂の頭をポンと叩く。

「心配しなくても、手は出さない。この約束はちゃんと守るつもりだ」
「あ、当たり前です!」

 不満を表明しようと、咲穂は思いきり頬を膨らませる。

「その代わり……君も俺には惚れるなよ。さっきの恋する顔は、しっかり覚えておいて次は人前で見せてくれ」
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