このたび、夫婦になりました。ただし、お仕事として!
 クスクスと笑いながら、櫂が咲穂の前にティーカップを置く。高級な紅茶のいい香りがふわりと鼻をくるぐる。

「あ、すみません。ありがとうございます」
「いや」

 ダイニングテーブルに腰かけていた咲穂の向かいに彼も座り、やけに楽しげにこちらをのぞいた。

「私はガラスの靴を落としたりしないので、ご心配なく」

 咲穂がぼやくように言うと、彼はぷっと噴き出した。

「たしかに。君はハイヒールでも猛スピードで駆け抜けていきそうだな」

 奥にあるテレビ画面に映っている人物が、自分の目の前で白い歯を見せて笑っている。この状況がやっぱり不思議で、現実感が薄い。

「今日は記念すべき同居初日だ。ゆっくりとうまい食事でも楽しみたいところだが、実務を先に済ませてもいいか?」

 言いながら、彼はテレビを消す。広い部屋に静寂が訪れた。

「実務?」
「あぁ、婚姻届と婚前契約書への署名だ」

 彼はファイルケースから書類を取り出して、テーブルに並べる。

「まずは婚前契約書からだな」
「婚前契約書? なんですか、それ」

 彼は当然のように口にするけれど、咲穂には聞き慣れない単語だ。首をかしげて聞き返す。

「結婚生活のルール、離婚時の財産分配などを取り決めておくものだ。アメリカの資産家の間ではわりと一般的になっている」
「へぇ、セレブにはそんな習慣があるんですね」
「俺たちのケースでいえば、資産の有無は関係ない。この結婚は取引だからな、契約書なしに進めるわけにはいかないだろう?」
「たしかに。あとで揉めないようルールを決めておくのはいいことですね」
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