このたび、夫婦になりました。ただし、お仕事として!
 少し寂しげに目を伏せて、彼は話を続ける。

「ずっと、俺にとってこういう店での食事は……気の抜けないジャッジされる場だったんだ」
「どういう意味ですか?」

 咲穂が聞くと彼は苦笑交じりに答えてくれる。

「俺には味方も多いが、敵はその倍以上いる。マナー、知識、教養、会話のうまさ。少しでも粗があれば、必要以上におとしめられる」

 セレブの世界は咲穂の想像など及ばないほどに厳しいのかもしれない。彼の完璧主義はそういう環境で生き抜くための術なのだろう。

「だから、食事は家でひとりが一番だと思っていた。でも……」

 そこで彼はくしゃりと、少年のように無邪気な笑顔を見せた。

「今日の料理はとびきりうまいな。ただ『おいしい』とだけ言ってくれる相手との食事は、すごく心地よい時間なんだと知れたよ」

 彼の表情はそれが本心であることを物語っていて、咲穂は嬉しくなった。胸がじんわりと温かくなって、無意識に頬が緩む。

(この時間を楽しいと思っているのは、私だけじゃなかったんだ)

「そんなふうに言ってもらえたら、私、ますます語彙力をなくして『おいしい』を連発しちゃうと思いますけど」
「それでいいよ。実際、君と食べる料理はうまいんだから」

 おおげさではなく、夢のように楽しい時間だった。
 
「会計を済ませるから、先に出ていて。夜景でも眺めながら待っていてくれ」
「わかりました」

 咲穂は先に店を出て、ガラス張りの通路のところで彼を待つことにした。店内からも十分に楽しんだが、いくら見ても飽きることがないほどに美しい夜景だ。

(この眺望をひとり占めなんて、本当に贅沢だな)

「お待たせ」
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