このたび、夫婦になりました。ただし、お仕事として!
 咲穂も冗談を返したつもりだったが、櫂は自身の指でシャープな顎のラインをなぞりつつ、真面目な顔で考え込んだ。

「ハレフを一店丸ごとか……どうかな」
「いや、普通は悩むレベルにもないですから!」

 静かな空間にふたりの明るい笑い声が響く。

「そろそろ帰ろうか」

 彼は当然のように咲穂の手を引く。この程度のスキンシップは櫂にとっては普通のことらしく、咲穂もやっとこの距離感に慣れてきたところではあるのだが……今夜はやけに彼の手が熱く感じた。

(あっ……)

 櫂の指が咲穂の指の隙間をすべっていく。俗に言う、恋人繋ぎというやつだ。こんなふうに手を繋ぐのは初めてで、咲穂の心音はバクバクとうるさいくらいに高鳴った。

(き、きっと深い意味はないのよ)

 自分にそう言い聞かせるけれど、足元がふわふわして全然冷静にはなれなかった。

 最後まで夜景を楽しめるように、櫂はゆっくりと歩調を合わせてくれている。

「今日は楽しかった」
「――はい、私も」

 ドキドキとうるさい心音に交じって、かすかな警鐘音が聞こえる。

『俺には惚れるなよ』

 櫂がしつこいほどに口にしていたその言葉。このビジネス婚でもっとも大事な契約事項。

(百パーセントありえない。そうよね、咲穂)

 自分に問いかけてみるけれど、即座にはうなずけない気がする。少し前まではたしかに持っていた、強い自信が揺らいでいた。

 端整な横顔を盗み見れば、視線に気づいた彼と目が合う。

「ん?」

 優しく瞳を細められただけで、胸がドキンと跳ねた。

(この男性を好きにならないと、本当に誓える?)
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