このたび、夫婦になりました。ただし、お仕事として!
「ただ、俺が咲穂に名前を呼んでほしかっただけだ。『七森さん』じゃなくて『櫂さん』を聞きたかった」

 その台詞は、咲穂の心臓をギュッとわしづかみにした。激しく鳴り響く、自分の鼓動の音しか聞こえない。

(演技は必要ないと言ったのに、どうしてこんな台詞を吐くの?)

 咲穂をからかって楽しんでいるのか、あるいは――。

「――櫂さんはとんでもない性悪です」

 咲穂はぼそりと小さくつぶやき、上目遣いに彼をにらんだ。

 ◇ ◇ ◇

「あぁ、いまいましい。本当に、どこまで邪魔な存在なのかしら?」

(なんてタイミングの悪い……)

 MTYジャパン本社ビル。最上階の役員フロアの片隅で、櫂は眉間にシワを寄せて高級感あふれる大理石調の床をにらみつけた。

「社内の女をもてあそんだ。CEOの椅子から引きずりおろすには、ちょうどいいネタだったのに……。あんな庶民と本気で結婚するなんて、頭がどうかしているとしか思えないわね!」
「たしかに。正直、驚きましたが」

 聞こえてくる声は、櫂の継母であり美津谷家の奥さまとしてこの会社でも絶大な権力を握る美津谷塔子のものだ。彼女の『いまいましい』『邪魔』は、子どもの頃から飽きるほど浴びせられてきた台詞なので姿が見えずとも間違えるはずもない。

 イラ立つ塔子をどうにかなだめているのは、MTYジャパン専務の今岡で、弟の潤を推す派閥の筆頭だ。

「ですが、考えようによっては……強い後ろ盾のある奥さまでなくてよかったのでは? これ以上、櫂さんが強くなることは避けられましたよ」

 塔子の腰巾着でもある今岡はどうにかご機嫌取りをしようと必死だが、彼女の怒りはおさまる気配もない。
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