千年前の恋を忘れずにいたら、高貴な御曹司の最愛になりました。
 二月である今月のお手本は、菅原道真(すがわらのみちざね)の有名な和歌だ。

東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな』

 春の東風が吹いたらその香りを私の元に送っておくれよ、梅の花。主人である私がいなくても春に咲くことを忘れてはならないぞ。――という意味だ。菅原道真が京の都から九州の大宰府に左遷されるときに詠んだといわれている。

 筆に墨をなじませ、白い半紙を見つめる。一筆目を書こうと手本に視線を遣った瞬間、『東』の字に昨日の名刺の名前がよぎった。ほんの一瞬運筆が鈍ったせいで、みるみる墨がにじんでいく。

 しまった……失敗だわ。

 筆を止めて、潰れてしまった文字を見つめながら「はあ」と息を吐き出した。

「あら、美緒ちゃん。珍しいわね」

 後ろから声をかけられ振り向く。立っていたのはこの書道教室の講師、藤原光子(ふじわらみつこ)先生だ。
 スッキリと清潔感のあるグレイへアのショートカットに、目鼻立ちのはっきりした顔立ちに上品なお化粧。実家の祖母と同い年だと聞いているが、どう見ても八十歳には見えない若々しさで、茶目っ気のある笑顔がとてもチャーミングな女性だ。

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