二十年前の私と 二十年後のあなたへ

◆エピソード 焦燥と憂い

私は大きな声で「今何時ですか?」と頑丈な扉に話しかけた。
 右隣からナースさんが現れ、
「今、真夜中の二時ですよ」といわれた。
 突然、私は我を失う。抑制帯で縛られた上半身を起こし宙をぶんぶんと殴り始めた。あまりにも激しいストレスと鬱憤が爆発した。すると明るいナースセンターから、患者らしき人影が見えたので怒鳴り散らした…
 「なんでそこから覗くと?!」私は患者に投げかけた。
「気にしないで!ナースセンターだから私たち患者もここに来ないとナースさんに尋ねることができんから…」患者の女は答えた。
 当然ではあるが当たり前のことだと私は、理解できずに一方的にキレた。
「いいから覗くな、どっかに行けって!」


 ……………「うるさい!…………看護師さん、お願いですからこの人を暫くトジコメテ!」


 入院も早々、経たないうちに患者同士のコミュニケーションはいきなり臨界に達した。
 私は少々感情的になったので急に眠気がやってきた。
「あの患者さん…
 …体調悪いから気にしないでくださいね」
 ナースさんはお伝えすると、
 その患者も「全然、気にしてないよ。ああいう世間知らずの坊やには厳しく言ったほうがいいんですよ」といった。
 私はもどかしさからか無性になにくそと思いながら意識を失った。
 ……
 妙に口が渇く朝を迎えた。わずかに漏れる太陽光がカーテンの隙間から私の右目に向けて差している。いつも通りの静かな朝、鳥たちの鳴き声とナースさんの足音がところどころ響き渡る。部屋は蒸すように暑い。たしか真冬のはずだが…冷房をつけてとナースさんを呼んでみる。しかし舌がくっついたかのようにうまく発音できない。
 想いは通じたのか、ドクターとナースさんは部屋に入ってきた。
 ドクターの名は櫻井。
 彼は言った。
 「鳥井さんなぜナースコールしなかったのですか?」
「え?」
「左腕が熱を持っていますよ!」
 というがなにも返答できない。
「大手術だったのですよ」
 私は戸惑った。手術を受けた記憶がまったくないのであるから…
 「左腕が熱いのは術後だから?」
 櫻井ドクターは躊躇せず答えた。
「ええ、
 あなた大変だったんですよ。大暴れ」
「?(大暴れ)」
「しばらくこの病院で……入院していただきます」
「ここはどこですか?」
「ここは球大病院です」
 球大病院?最初に運ばれた病院は球大ではなかったような気がしたが。そして大暴れ?
 私はいったいなにをしたのだろうか。
「鳥井さんは頑張り屋さんすぎるのですよ、
夜中まで頑張って歩こうとして疲れて休憩したレストランで暴れてしまったんです。だいぶ脳が疲れているので興奮もしているから充分に休息をとられてください」
「はい……」
 と答えたが私にはなんとなく引っかかっていた課題が浮かび上がった。学生には実際の骨ほど折れる学期末試験のことである。
 私はもしかして休学しなくてはいけないのだろうか?それも想像するとおそろしいが、
 いくつも年数が掛かり結果退学してしまうような気がして不安がよぎる。
 櫻井ドクターは
「焦らない、焦らない。大学復帰はちゃんと回復してから。しっかり体調を落ち着けましょう」
「人のことだと思ってその言い方はあんまりだ!」学期末試験をまず受けさせようとは、
 まったく言っていなくて、もどかしく感じた。それとも骨折がある程度治れば復帰ということだろうか。
「今は治療に専念、専念よ。治療を頑張ろう!」ドクターの隣で力強くそう告げたのは、出利葉ナース。
 医療スタッフは患者に対する最も基本的な言葉であり人生でも重要な指針となるアドバイスを私にお伝えした。
 
 女性ナースさんに保清を受けている。とても丁寧に拭かれる。うら若き男性にとっては恥ずかしいといったシチュエーションだろう。
 ふと目を下にやる。
 尿道に管がついている。
 私が最近、なぜかオシッコに行かない理由はそういうことだったのか…
 そのとき底のない絶望的な無力感に到達した。仕事中のに怒鳴りつけ、そうしているうちに櫻井ドクターは飛んできた。私は「はやく尿道の管を外してください!」と大声で喚いた。
 櫻井ドクターは先ほどのような表情を浮かべ、「鳥井さん焦らない。まず精神が落ち着いて会話ができるようになりましょう」となぜだか裸の私に向けて笑みを浮かべている。出利葉ナースも「あなたは頭がいっぱいいっぱい。落ち着いたら、じき管もはずれる」
 と私に云った。
 私は夕方まで興奮して誰とも口が聞けなかった。静かにゆっくりと食事が摂りたい、温かいご飯が運ばれてきた。蟹の缶詰のような味のするご飯、ポタージュスープに口をつける。ナースさんと薬を服用する。
 …突然、
 …背中が反り上がる…
 …眼球上転…
 私は背中がひっくり返るように後ろの光が目に入る。なぜか真後ろにある発光体から目がまったく動かないし動かせない。
 …また始まったか…
 
 今日もまた日は明ける。空気は肌寒く緊張しているが灰色から淡い青に移り変わる透き通る空であった。朝から嬉しいことがある。副作用が起きたにもかかわらず、意外とスッキリしている。管が取れ次第、部屋が変わり、わりと自由が効くらしいと言われた。金子という名の男性ナースが私に話しかけ、
「鳥井くん管が取れても一人でオシッコができなかったらまた観察室に戻されるよ」と言った。金子ナースのいうことも不安を煽っているようにきこえたので、
 「大丈夫や」
 と反論し、管は外れた。
 私は喜びのあまり一気に立ち上がったが太ももに急に重みがかかったように、ストンと座ってしまった。
 「はは!ほらね」
 金子ナースは笑っている。
 私は観察室に戻されたくはないので彼の肩に掴まりながらなんとか用を足しに向かった。彼も大丈夫だろうといい、保護室に送り送られた。部屋からは外出が可能であり、まずはトイレ、お風呂から順次可能という配慮であった。
 私は金子ナースに掴まりながらゆっくり移動して、リハビリに使用している唯一の持ち物ゴムボールをギュッと握りしめて期待を胸に新しい部屋に辿り着く。
 しかし私の期待は淡くもくずれさる。
 いつか訪れたことがあるような閉ざされた部屋、そこにはマットのみある殺風景で簡素化されていて、ポータブルのトイレと鉄格子、ガラス戸と監視カメラ、ところどころの落書き。想像することすらできかねる環境に驚き、はっきり言って一時間たりとも滞在したくない。
 与えられた物はラジオのみ。
 脳が興奮状態の私は聴こえてくる声さえも
 私のことをオンライン中継していると感じ、この世界はたった一人の私、
 私のみの世界と盲信してしまう。
 世界の周りの人物は皆、演技したり意味深なメッセージを含めていると、
 思うようになってきた。
 精神科病棟に入って私の世界観は一変した。というよりとても明るい世界から冥界に踏み込み精神の生命活動は事実上停止したといえる。
 そう、
 絶望状態である。
 このようなとき、救ってあげられるのは
 いつだって、
 ……
 いつだって ……
 
 最愛の人だろう。
 
 永遠に最愛の人は必ず存在しているし、
 まだ今世で出会ってもないが退院して
 寛解になると何気なく、
 お疲れ!元気?などと挨拶を交わしている かもしれない。
 旅は終わるわけにはいかない。
 私だって生まれた目的はある!
 頑張れているには理由がある!
 どんな辛いことがあっても
 素晴らしい人生。
 輝くまでに美しいひととともに
 出逢い感謝して……生きたい!
 
 一段と寒さが増してきたある日、私はコップでガラス戸ガンガンと、打ちつけた。精神状態は完全に破綻した。とにかく入院生活に終止符を打ちたかった。
 瞬く間に出利葉ナースが飛んできた。
「鳥井くん今夜中の二時よ、どうしたと?
 パニックになるのはわかるけど、そんな調子じゃ退院しても四六時中、助けを呼ぶことになるよ」
「……もう限界です。ここにはいたくない」
「今の状態を先生によく相談してみてごらん。まずゆっくり身体おちつけるのが先決よ」
「相談しても何も変わらないからこんなところに閉じ込めるんだろ!」と私は逆上して拳をガラス戸に打ちつけた。
 そのとき出利葉ナースの沸点を越えてしまった。以前にガラス戸を壊して自分の腕まで骨折したのに、暴れてしまい、自分の肉体を顧みず逆上。愚かすぎて言葉の例えは見当たらない。私は二十年後また同じ過ちを繰り返すのだろうか?この病気は脳の興奮、異常のため、混乱した状態でナースが温かく接してあげるのは暫し限界がある。
 出利葉ナースは無表情でドンとガラス戸を叩き、スタスタと後ろを向いて足早に去っていった。
 
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