『逆、猫吸い譚 ~雄の三毛猫、三条国芳は今日もすず子の匂いを吸う~ 』


 日が完全に落ちた夜。
 さり、さり、と布を引きずる音にたまちゃんに出して貰った脇息(きょうそく)に預けていた体を起こせば「良い、(もた)れていろ」と言われてその通りにさせて貰う。
 少しだけ、肉体と魂が剥離したようだと言われたけれど私の体は神様が下さったあのたった一粒の葡萄からみるみる回復し、風呂上りの今はたまちゃんが一生懸命、丁寧に剥いてくれた梨を食べていた。
 朝になったらおにぎりを持ってきてくれると言って、小さくなって眠っていたたまちゃんの事も考えて今夜はもう、三条さんを呼んでくれたら部屋でお休みして、と伝えて下がって貰っていた。

 今は私にあてがって貰った、庭が一番よく見渡せる部屋で三条さんと二人きり。

「私、引っ掻いてしまったみたいで」

 布団の上ではなく、いつもたまちゃんが膝をつく畳に直に胡坐をかく三条さんは「お前の柔らかな爪など傷の内にも入らない」と言う。
 焚かれた蝋燭の明りに照らされている三条さんのゆるく波打つ奔放な癖っ毛は今、赤茶の色をしている。耳も同じような色あい。

「ごめんなさい。気が動転していたとは言え神様の御使いの体に」
「だから掠り傷だと言っただろう」

 悪いのは俺だ、と三条さんの耳が横になる。

「人の子のお前が神社で猫の姿をとっていた俺に話しかけた時。猫への作法としてお前が差し出してくれた指先から感じたあの匂い……俺達は匂いを元に自分の伴侶を見つける習性がある」

 種類の違う香を重ねるように、相性の良い匂いが合わさる事が最良の番となる条件なのだと三条さんは言い「人の子はそこまでの嗅覚を持ち合わせていないからいまいち感覚が分からないのかもしれん」と言葉を続ける。

 でも私は、三条さんの言っている匂いがなんとなく分かったような気がする。

 三条さんが訪れた時、直前まで口にしていた梨の芳香のようにそれこそ御神酒の、日本酒の醸造され、洗練されたお酒のような人をうっとりとさせる匂いがしたのを確かに感じていた。

 ――お前の匂いは俺を惑わせる。

 その言葉に私は顔を背けたけれど、本当の事だったのかもしれない。

「すず子……?」

 脇息をよけて、胡坐をかいている三条さんの胸元に顔を寄せる。

「待て、それは」

 この寝殿にやって来た日、三条さんがしきりに私の匂いを吸っていたのは……この何とも言えない華やかな甘い匂いのせいなのかもしれない。

「すず子やめろ」

 後ずさりをしようとする三条さん。
 体勢が崩れたせいで少し体重を掛けてしまっていた私はその体を押し倒してしまった。

 体と体が重なったことで匂いが、立つ。

「ごめんなさい、今……退き」

 まだ脇息に体を預けていたような私がすぐに起き上がれる筈もなく、そして三条さんはそんな私の体に腕を回して、抱き締めてしまった。

「三条さん」
「名を、呼んでくれないか」
「国芳さん……?」
「ああ、そうだ……俺は国芳。猫の神使(しんし)を纏める猫王(びょうおう)三条国芳。人の子、犬飼(いぬかい)すず子……俺はお前を妻にしたい」

 私の首筋の匂いを吸う国芳さん。
 その吐息があまりにも甘く、切なくて。

「んん……」

 そのまま顔を押し付けるような国芳さんの仕草が猫の親愛の行動に思えて、本当に私は国芳さんから愛されているのだと知る。
 たまちゃんが私にしてくれる好き、の仕草よりももっと深い、まるで自分の匂いを擦りつけているようにもとれる国芳さんに暫くされるがままになっていると「今日はここまでにしておこう。返事は後でいい」とゆっくりと体をずらしながら私を座らせてくれた。

「あ、悪い……」

 眠る為に少し加減して結んでいた寝間着の腰紐が私の胸元の袷を緩くして、あと少しで中が見えそうになっていた。

「着直せるか。無理ならば玉を」
「いえ、大丈夫です」

 袷を少し引き寄せる。
 でも国芳さんの視線が、私のこの胸元に熱く向けられているのを知って……私は正式にこの三条国芳さんから妻になって欲しいと、そしてそれについての返事が欲しいと言われてしまった。


 もう寝ろ、と言って出ていく背を見送る。
 部屋に残されていたのは三条さんが肩に掛けていた派手な刺繍の羽織りもの。
 そっと手繰り寄せて着崩れたままの胸に抱き込む。

 す、と息を吸えばまたあの華やかで甘い匂いが肺いっぱいに広がって、その甘さに噎せそうになり、胸の奥がきゅ、と切なくなる。

「んッ……」

 これは、と。
 頭の中では国芳さんが私の口の中に差し入れた指の先の質感の記憶が勝手に流れ、思わず膝と膝を擦り合わせる。

 まさか国芳さんはずっと、こんな状態で。

「ふ、う……っ」

 体のどこにも触れていない。
 それなのにこんなに、国芳さんの匂いだけで体が熱くなる。

 返さなきゃ、明日たまちゃんに渡さないと、皺になったら駄目なのに、といくつもの考えが頭に巡ってもすぐにそれを打ち消してしまうような強い匂いに酔わされる。惑わされる。

「ん……んん」

 弱っている体には刺激が強い。
 国芳さんの匂いに酔わされ、歯止めが効かなくなっていた。


 翌朝。
 よく眠れずに朝を迎え、今更ながらに寝臥せっている私に対して「国芳さま、まさかまだ体調のもどられていないすず子さまを……たまもすず子さまの体を磨きはしましたが、まさかほんとうにお体に噛みついて」と掛布団の上に広げておいた彼の羽織りものを見てたまちゃんが珍しく怒っていた。

 何も無かったのよ、と伝えてもたまちゃんの金茶の丸い瞳は私の首筋を見つめている。噛まれてはいない。擦りつけられはしたけれど。

「それならなぜすず子さまからこんなにも国芳さまのにおいが」

 それは……あれだ。
 私がその羽織りものを抱いたまま……ずっと悶々と身悶えていたから。
 国芳さんが忘れて行ったその羽織を自分の代わりに返しておいて欲しい、とたまちゃんに伝えて私はやっと訪れる眠気と疲労に瞼を閉じる。

 そして私が眠っている間にたまちゃんによって羽織りものが届けられた国芳さんは何故かその受け取った状態から微動だにせず、羽織りものを肩に掛けるでもなく、ただ立ちすくんでいたと目覚めた時にたまちゃんから聞かされた。
 あの羽織りに、私の匂いが濃く染みてしまっていたとしたら。たまちゃんも私の衣類やお世話をしてくれているからその匂いの濃さに気が付いていないみたいで……国芳さんには朝から悪いことしちゃったな、と思いながらも私は少し、嬉しかった。
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