『逆、猫吸い譚 ~雄の三毛猫、三条国芳は今日もすず子の匂いを吸う~ 』


 飲まないか、とまた神様への御神酒を勝手に持ち出した国芳さんが私の寝所に訪れる。

「なあ、すず子」

 あれから私はまだ国芳さんのお嫁さんになるかどうか、返事をしていない。それなのに私の寝所にまで来て……たまちゃんは「ごゆっくり」と機嫌よく出て行ってしまうし、二人だけの寝所はどうしても慣れないと言うか、恥ずかしいと言うか。私だって年齢にすれば三十、とは言え。

「お前の手を一時(いっとき)、借りたいんだが」
「手、ですか」
「俺がお前をさらった日、社務所に誰も居なかっただろ」
「はい……ご用の方は、と木の札が掛けられて。お昼の時間かな、と思ったんです。そうしたら猫の国芳さんがおみくじの箱に」
「ああ」

 私に盃を勧める国芳さんから受け取り、揺れて立つ良い香りに目を細める。
 良い匂い、と感じていると国芳さんの視線が私に刺さった。

「お前、美しくなったか?」
「え……」
「いや、なんでもない。別に俺は顔の美醜などどうでも」

 急に何を言い出すんだろう、と国芳さんの耳を見るとどこかせわしなくぴくぴくと動いている。

「今、現世ではお前が最初に思っていたように“縁切り”の伝聞が大きく広まったようでな……見習い猫の手が足りない」
「見習い猫、さん?」
「神使となるべく筆を持たせ、獣の耳までも隠し、人の子の形を長時間とっていられるよう修行に出している猫たちだ。あの神社に仕えているのは爺さんの宮司以外、すべてが神使見習いの猫たちだ」

 宮司さん以外、全部猫さん……?
 私の脳裏にはどうしてもたまちゃんや猫の姿の国芳さんがそのまま、せわしなく動いている姿が思い浮かんでしまうけれど耳を隠した人の姿、となれば表立っていても本当に人間と見分けはつかない。

「あの日の俺は猫だったが……神の使いとして人の子の営みを見聞きする為には人と同じ姿をしていた方が色々と都合が良いんでな」
「それで、その神社が」
「ああ。お前のように心を入れ替える者なら俺も願いをそのまま神に届けるんだが近頃、様子がおかしい」

 国芳さんの言いたいことがなんとなく分かってしまった。多分、いろんな人の影のある願い事が溢れている。
 テレビか何かで特集でもされてしまったか、それともネットで急速に広まってしまったか。私もどこであの神社が縁切り神社だと知ったんだっけ……人づて……?思い出せない。

「すず子、お前はどうしたい?手伝いが嫌なら嫌と言ってくれて構わない。他の猫を遣わせる」

 盃に口を寄せて舐める国芳さんと目が合う。
 その瞳に見つめられてしまうと私は何故か、嫌と言えなくなる。
 それに“どうしたい?”との問いは私が未だに保留にしてある国芳さんのお嫁さんになるかどうかについてまで問われているようで、少し言葉に詰まってしまう。

「いい気分転換になるかと思ったんだが」

 そう言えば私って、あちら側ではどうなっているんだろう。
 国芳さんは“どうとでもなる”と言っていたけれどアパートとか、会社とか……そもそもこちらでも一度消えかかってしまった私の肉体。

「私、本当に戻れるんですか」
「ああ。お前が望むなら、肉体も魂もそのままだからな。まあ……若干、ではあるがお前の身の回りに関する“煩わしいモノ”に関しては不自然にならんように記憶を曖昧にさせている」
「そんな都合のいいこと」
「良いんだよ、お前は」

 特別待遇を受けている気がする。
 でも国芳さんが笑っているの、久しぶりに見た気がした。
 私の顔を覗き込む時、最近はずっと心配そうな表情と少し下がってしまった耳があったから。私も、そんな国芳さんに心配を掛けないように振る舞っていたけれど。

「私にお手伝いが出来るのなら、させてください」
「無理はするなよ。向こうの猫と爺さんに伝えておく」

 話が纏まり、私も手にしていた盃を唇に寄せる。
 そのまま半分くらいまで頂いて、やっぱり国芳さんの目が私の行動の全てを見ているようで……改めて、涼やかな目元とその鼻筋の通った美貌に見つめられて恥ずかしくなる。そんなに見つめられたら残りのお酒が飲みこめない。

「すず子」
「はい……」

 名前を呼ばれて、少し身を乗り出した国芳さんに両肩を掴まれて首筋の匂いを吸われる。私は盃の中にまだ薄く残っているお酒を溢してしまわないように、胸のあたりで両手で支え持つ。

 私が、赦してしまったのだ。
 たまちゃんのご期待には沿えないけれど、国芳さんは私がお嫁さんになるか返事をするまで体に手を出さないと知って、でもどこか猫の習性に抗えず、私の持つ匂いを求めてそわそわとしている姿を無碍に出来なかった。

 いつしか私も、国芳さんから香る匂いが好きになっていたから。

 すんすん、と私の首筋の匂いを吸って、それから猫がするのと同じようにすりすりと頬や顔を擦り付ける。少し跳ねている髪の毛の先が当たるとくすぐったくて肩が竦んでしまえば国芳さんは満足したように体を離してくれた。

 そして彼は名残惜しそうに一枚、羽織りものを置いて行く。
 私はそれを抱き締めて眠り、朝にはたまちゃんに返すようお願いをする。

 まるで文通みたいなやり取り。
 昔の人は手紙や扇に花を添えたり、自らの印となる香や相手の事を想って選んだ香を焚き染めて恋文のやり取りをしたそうだから多分、それと同じような感覚。

 私と国芳さんは自らの持つ芳香を交わし合っている。

 寝所に帰ってしまった人の羽織りを引き寄せ、胸に抱く。軽く息を吸い込めばもう、私はまるで夢の中にいるような気分になって、そのままごろんと床について瞼を閉じた。
 見る夢はいつも、国芳さんに優しく抱かれている夢だった。

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