『逆、猫吸い譚 ~雄の三毛猫、三条国芳は今日もすず子の匂いを吸う~ 』
翌日の朝。
「たまも現世にいってよいのですか!!」
「あくまでも見習いたちの先達、すず子様のお世話係として、だ」
「ううう黒光さまー!!」
私の前に座ってる黒い羽織りの人の言葉に感激しているたまちゃんの耳が嬉しそうに倒れている。そして遅ればせながら私はこの黒い羽織りの方のお名前をたまちゃんの言葉によって初めて知った。
危うく肉体と魂が離れてしまいそうになった時。この方、黒光さんがいたずらに私をからかってしまった国芳さんを諫めてくれたそう。
食事を摂らない人間がどうなってしまうのかも知っていて、神様から頂いた葡萄のお陰も相まって、後に順調に体調を取り戻せたのも彼の取り計らいのお陰だったとたまちゃんから聞いている。
お腹が空くことのない場所で、彼らは食事をとらない筈なのに私の為におにぎりや炊いたご飯を用意してくれたのも、この黒光さんが神社の宮司さんに神様にお供えするものとは別に一膳、用意して欲しいと掛け合ったのだとか。
そうなると国芳さんの言っていた“爺さんの宮司”と言う方はこの場所と猫の御使いの存在を知って……?
「宮司には事の次第はもう伝えてある。玉乃井、お前は神、猫王、そしてその妻となる方に仕える神使の一匹として全てにおいて粗相のないよう身の程を」
そこは匹で数えるんだ。
さっぱりとした生地の黒い羽織りと同じように癖のない短い黒い髪に黒い耳、たまちゃんと同じような金茶の瞳を持つ黒光さんはたまちゃんによく言い聞かせている。別にたまちゃん、私に対して粗相と言うか……国芳さんとの話なるとちょっとアレだけど普通に対応して貰っていた。
私が住まわせて貰っているこの“猫寝殿”に立ち入れる猫さんはごく限られていて、本来ならば国芳さんに面通りすることなど滅多にないそう。だから私もたまちゃんと国芳さんにしか会わなくて、黒光さんは忙しいようでこうして会話をするのは初めてだった。
厳しく言い付けているようだけど言っている内容に理不尽な事はなく、一応……国芳さんのお嫁さん(仮)の私の身の安全を第一に考えるよう、きらきらの瞳のたまちゃんに伝えている。
でもたまちゃん、話を半分くらいしか聞いてないと思う。
ちら、ちら、と私の方を向いて事あるごとに同意を求められるのでその都度頷いているけど……もしかして私はたまちゃんの様子を見ながら社務所のお手伝いをしなくてはならない……?そうだとしたらこの引き受けたお手伝い、大変かもしれない。
「すず子様」
「はい」
「玉乃井からどうか目を離さないよう、お願いします」
やっぱり。
「大丈夫ですよ。ね、たまちゃ……」
「現世……すず子さまと……!!」
駄目かも、と輝くたまちゃんの瞳を思い返すその日の昼すぎ。
私はたまちゃんに取り次ぎをして貰って国芳さんの執務室と言われている場所を訪れていた。
国芳さんはまだ“お仕事中”とは言え、私の入室を許してくれる。
畳敷きではない柿渋色の板張りの奥、飾り格子を背にした国芳さんが一段高い場所に据えられた大きな文机の前に座っていた。
その机の上にある大量の賞状サイズくらいの薄い半紙のような紙の中から一枚を手に取りながら一段下のそばに来た私に声を掛けてくれた。
「見学、だったか?」
「はい。国芳さんが普段どんなことしているのか気になって……お邪魔します」
「ああ。まあ上がって座れ」
とんとん、と隣に座るよう招いてくれる。あらかじめ、私の来室用にと黒光さんが用意してくれたらしい肉球の刺繍の入った座布団の上に座らせて貰えばほのかに墨の匂いがする。
私の寝所に名残惜しそうに置いて行く国芳さんの羽織りものから時々感じられた匂いのひとつ。
国芳さんの手元には数本の細い筆と美しい細工の施された硯箱があった。
すると国芳さんは今、読んでいた一枚を私に差し出す。
「読めないだろう」
「ええ……でも、かな文字……私たちが使っている言葉?」
「そうだ。これならどうだ、お前でもはっきりと読めるに違いない」
これは、誰かの願い。
でも最初に手渡された方は私では読めないようなくしゃくしゃとした文字な挙句、今にも消えそうな程に薄い墨色をしていた。それとは反対にもう一枚渡された方は学校で習った楷書体のようなしっかりとした書体で濃く、丁寧に書かれている。
「願いの強さや明確性がそのまま墨文字に現れて……?」
「お前は聡明だな。当たっているよ」
筆を手にしたまま、国芳さんが褒めてくれる。
でも、個人情報……しかもこんなデリケートな情報を私に見せて何か支障が出ないのだろうか。私が手にして良い物かどうかも分からないのですぐに国芳さんにお返しする。
「これらはまだ神に上げる前の願いだ。俺や黒が一枚ずつ“読んでいる”からな」
「御使い、と言う役目と言うのは」
「そうだな……現世で言うところの“代筆業”とでも言おうか。普段は社の拝殿の奥に用意した文机に一匹が座って筆を執っている。そこで人の子の願いを直に耳にして……」
神域で作られた筆と紙、墨ではなく同じく神域で汲まれた水で穂先を濡らし、耳に入ってくる願いを書き留めているそう。だからあとから浮かび上がってくる文字の色には濃淡が、文字の形も筆が勝手に動くそうで御使いの方それぞれの意思は関わらないと言う。
「神は忙しい。こういったあやふやな物まで全ての人の子の願いを一々聞き入れていたら今すぐにでも聞いてやりたい願いも聞けない。願いに優劣を付けたくはないが俺がある程度選ばせて貰っている。もちろん、あぶれた願いは捨てているわけじゃない。纏まると境内に持って行って焚き上げて……気まぐれを起こした神が拾うかもしれないからな」
体が弱っていたり、心が弱っていたり、声がどうしても小さくて伝える願いが薄い墨色となってしまっていても……国芳さんが必要と思えばここで清書し、神様のもとまで届けている、と。
どんなにくしゃくしゃな文字でも国芳さんは“読める”と言って、それなら私のあの願いは誰が聞いて、どんな文字となってここへ届けられたのだろうか、と思う。
「お前の願いは……神が直に聞いていた」
「え……」
「あの野鼠の姿は都合が良い。賽銭箱の影に、拝殿の梁の上にと駆け上がって」
「まさか、私が参拝をした日もあのお姿で」
「ああ。お前は気が付いていなかったがな。俺の現世への散歩に気が付くと時々降りて御出でになる。忙しい癖に」
猫よりも気まぐれな存在だよ、と国芳さんは笑って言葉を続ける。
「あの日は偶然が重なっていた。見習いたちに昼休憩を取らせている間、俺が代わりに筆を執っていたんだが参拝者もなく暇でな。拝殿から降りて猫の姿で境内をうろついていたらお前が来て……匂いがした」
「そうだったんですか……そんなことが」
「その日に書かれた願いの書状はこの寝殿の東端にある“蒐集の間”に納められ、黒が朝になると取りに行っている」
興味深い話に私は頷くばかりでそれから暫く、仕事の様子を眺めていると「今日はもう仕舞いだ」と国芳さんは筆を置いて肩や首筋を伸ばす。
「人の姿は肩が凝る」
何気ない一言だったのだと思う。
私だって、仕事が終わった時に肩凝りはよく感じていた。
国芳さんに掛けた言葉は、私にとっても何気ない一言だった。
そして、夜。
しっかりとした国芳さんの肩に触れる。
ぐ、と指先でその張りのある筋をほぐすように、痛くならないくらいの力加減。優しく揉みほぐしていれば燭台の明りに照らされて赤茶に光る国芳さんの癖のある髪から覗く綺麗な三角の薄い耳がぴくぴくと反応する。三色に輝く髪をしていても間近で見ると耳だけはわりと黒いままなんだな、と知る。
私を本当に妻にしたいのか、足しげく私の寝所に訪れていた人。
今夜は私がお邪魔をして、背後から肩に触れていた。
「痛くありませんか」
「ああ」
猫さんは、その子によって触っても良い場所とちょっとでも触れれば嫌がったり怒ったりする場所がある。だから私は猫の習性をどことなく持っている国芳さんに肩は?背中はどうですか?と聞きながら触れて、それで。
ちょっと、後悔していた。
首筋が近いからか、国芳さんから感じられる匂いにあてられて……手が止まってしまった。
体ごと振り向いた国芳さんが立ち膝になっている私の腰を引き寄せて腕の中に納めてしまう。
私も私で、それを拒まなかった。