『逆、猫吸い譚 ~雄の三毛猫、三条国芳は今日もすず子の匂いを吸う~ 』


 抱かれた体を開く事はなくても、もうこれはそう言う行為と同じ意味を成しているのかもしれないと思い始める。国芳さんの匂いに酔わされるように、その腕の中で首筋を差し出せば彼は黙って自分の匂いを擦りつける。
 絡んだ足が逃げられないように私の寝間着の裾を踏んで、私の身も心も自分の物だと言わんばかりに首筋に、胸元に、国芳さんは熱心に匂いを付け、そして……混ざり合う匂いを深く吸い込む。

 胸の奥が、騒がしい。
 もっと、あなたと交わっていたい。
 戸惑いの向こうにあった思いがじわりと滲む。

 上げ膳据え膳の旅館だと思えばいい、気楽に過ごしてみればいいと言われていた私にある死の相と言うものすら今はもう無いのでは、と感じていた。
 この人の腕の中にいると、心が安らぐ。

 安息の匂いと温もり。
 日によってそれが少し変わっている事に気が付いていた私は今日の匂いはまるで甘いホットミルクを飲んだ時のような、眠れない夜にそっと自分を慰めてくれるような温かい感じがして、国芳さんの寝間着の着物を掴んで瞼を閉じる。

 こちらに来て、幾つの夜を過ごしたのだろう。

「すず子……?」

 とろりと溶けてしまいそうになるまどろみの中、国芳さんが私の額を撫でてくれる。

「物欲しそうな顔をするな」

 だって、とても心地いいから。

「食ってしまうぞ」

 それは言葉だけで、本当はそんな乱暴な事なんてしない癖に。

 掛布団を引き上げる国芳さんと朝までそのまま眠ってしまった。
 いつも夢で見ていたように――私が彼の腕の中で猫のように甘え、その指先で私は耳の下や顔の輪郭をすりすりと撫でられて。
 どちらが猫なのか、たまちゃんみたいにごろごろとは喉を鳴らせられないけれどきっと今、私が猫の姿だったら恥ずかしいくらいに音を立てているに違いない。


 丸く、抱き込まれたまま迎える朝。
 まだ眠っているのか、それとも私の匂いのせいで眠れなくて今更朝寝が始まってしまったのか、国芳さんは私の腰を緩く抱いたまま動かない。

 普段の起きる時刻を回っても、ついに国芳さんの寝所から出てこない、と言うか出られなかった私。迎えに来たたまちゃんが小さな声で「失礼いたします」と声を掛けてから入室してくる。

「あらら……あららら……」

 たまちゃんの白い耳がぴんと立つ。
 でもね、まだ私と国芳さんは……あ、これはマズい。
 朝の白みだしたばかりの薄暗い室内でたまちゃんの丸い瞳がいつもより濃いこがね色に爛々と輝き出し、膝をついて正座をすると私と国芳さんに向かって深々と頭を下げる。

「おめでとうございます」
「ちょっとたまちゃん、違っ」
「玉、か……?」
「国芳さま、おめでとうございます。ついにこれで国芳さまとすず子さまは正式なつがいに」

 私を抱き込む手に力が入ったのが分かった。

「まだだよ」

 ふ、と笑った国芳さんの吐息が私の耳に掛かって少しだけ肩を竦める。
 目の前では「そんなあ……」と耳をしょげさせているたまちゃんがいた。


 下ろしたての装束。
 鏡の前で袴の紐を結んで、呼びに来てくれた黒光さんに案内をされながら私が普段眺めている庭とは別の、少し離れた所の庭に降りる。

「この西の門が現世との境になっています」

 見送りに出て来てくれていた国芳さんにも「行ってきます」と挨拶をしてちょっと興奮気味のたまちゃんと一緒に白い漆喰の壁際にあった木製の門を押し開く。
すると一瞬でそこは私が参拝をした神社の裏手の景色。振り返れば“きけん、立ち入り禁止”の木札が下げられている扉が建てつけてある祠があった。
 確かに、私もこの祠を見たことがある。

 そしてあの寝殿のある場所がこの現世と神域の境界なのだと言うことがよく分かった瞬間だった。
 扉の一枚向こうはもう、別の世界。

 それでもあまりにも、びっくりするくらいに身近な存在だった 。

 私とたまちゃんが辺りを見回せばちょうど竹ぼうきを持ってこちらの様子を伺っていたらしい宮司さんの姿を見つける。
 そのまま軽く挨拶を交わして社務所がある方に案内をされ、どうやら私の身に起きたことも聞かされていた老齢の宮司さんは「猫の手を既に借りていた所に、まさか人の手を」と感慨深そうに語り出す。

「宮司さんはその、こんな不思議なこと……受け入れられて?」
「見えているのか、はたまた“見せられて”いるのか。これも神の采配と思って、私は粛々と全うさせていただいているんですよ」
「そうでしたか……あ、あと私の食事を用意してくださって、ありがとうございます。体調も戻りました」
「ええ、ええ。黒光様から直接お伺いを。ここに参拝されたあなたは寝ていた猫王様に気に入られて」

 宮司さんは向こうの世界を見たことがあるのだろうか。
 私は国芳さんの手で連れ去られてしまったけれど、こんなにも理解しているのなら。

「私には神域を覗ける程の度胸はありません。ああ、扉の蝶番がどうにも古くなった時に修理をするために少しだけ伺いましたが美しく輝く庭があって……」

 同じ人間同士なのにこの宮司さんは人の心が読めるようだった。
 年の功?とはまた違うような、やっぱり向こうと扉一枚しか隔てていないここは神様や国芳さんたち、御使いの猫さんたちの気、みたいなものが少し流れ込んでいるのかもしれない。
 だから私の身に起こった事も普段ここで生活している宮司さんは普通に受け入れ、理解している。

「さあ、猫王の若奥様」
「いえあの、まだそう言った立場では」
「おや、違うと……黒光様は確か」
「犬飼です、犬飼すず子と言います」
「猫王に嫁ぐ方が犬の名字とはなんたる妙、縁とは面白い物です」

 だから嫁ぐとか……もう。
 でも、ちょっと、そう言われてしまうと私も本気になってしまいそうになる。
 こちらでお手伝いをしていただきます、と通されるのは私ももちろん見たことがあるごく普通の事務所のような、それでも社務所と言うこともあって和の建築ではあったけれど、裏口らしい玄関のガラスの引き戸を宮司さんがカラカラと開ける。

 途端に私の耳には「にゃーにゃー!!」と言う甲高い声が飛び込み、しっぽをピンと立ててそわそわしている五匹の鯖柄の猫さんたちに出迎えられた。
 見習いと言っても人の姿をしている筈なのに、と私の心の声が宮司さんにも伝わったのか「就業時刻前から化けていると途中で力尽きてしまうようで、朝と夕方はこんな感じです」と説明をしてくださる。
 私の身に起こった事にも動じない宮司さん――きっと毎日、こんな光景を繰り返している。

「はいはい、煮干しをあげようね」

 しかも餌付けまでしていた。
 だからみんな玄関前で待機をしていたらしい。

「ねえ、たまちゃん」

 場所が変わって、借りて来た猫のように緊張していたのか随分と大人しかったたまちゃんに話しかけようとして私は振り向く。

「たまは……たまは神使の先達だから、みなのおてほんにならないとだから……」

 たまちゃんのきらきらとした丸い瞳は懐から『減塩猫用高級煮干し』と書かれた袋を出した宮司さんを一心に見つめていた。

「宮司さん、ひとつ頂いても?」
「ああそちらの御嬢さんも神使様で。上手に尾と耳を隠されていたからてっきり人かと」

 どうぞ、と私に手渡されたのは高級料亭とかで使われるような大きなカタクチイワシの煮干し。

「これ、結構なお値段のやつでは」
「こんなに懐かれてはつい、甘やかしてしまってね。黒光様にはどうか内密に」

 もちろんです、と頷いて一本だけとは言え大きな煮干しをたまちゃんが持ってくれていた荷物の包みと引き換えに手渡せば「すず子さまだいすきです」と大切そうに両手で持ってかりかりと食べ始める。
 他の子たちは猫の姿だったので、きっと人の形をしているより大きく感じて満足感が違うのかな、と幸せそうな五匹と人の姿のたまちゃんを見る。宮司さんも満足げだった。

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