『逆、猫吸い譚 ~雄の三毛猫、三条国芳は今日もすず子の匂いを吸う~ 』
就業時間間際となり、五匹の猫さんたち――全員がオスの兄弟猫だと言う彼らはそれぞれに人の姿になって挨拶をしてくれた。
「たまも時々に猫になります。それくらい人の子の姿でいるのはたいへんなんです」
確かに、私の看病をしてくれていたたまちゃんも度々、白猫の姿に戻って眠っていた。その方がやはり猫としては楽なのだそう。
「さあ、すず子さまは国芳さまのつがい。その貴いお手をお貸しいただけるのです。みなも粗相のないように」
あ、たまちゃんがちゃんとしている。
神社に来る直前まで黒光さんに「玉乃井、すず子様に粗相のないように」と言い聞かせられていたのを耳をぴょこぴょこ動かしながら話半分にしか聞いてなかったのに。それを思い出してちょっと笑ってしまいそうになる。煮干しまで嬉しそうに食べていたし。
(黒光さんには絶対に秘密にしておいてあげよう)
今は神使の先輩として立派に振る舞おうとするたまちゃんの耳も確かに消え、肩口で切り揃えられた髪の隙間から人の形の耳が見え隠れしている。
宮司さんも祈祷などの御勤めが無い時は社務所の奥に控えているそうで、何か困った事があったら、と言われていた。私も学生時代に接客業のアルバイトをしていたので神社での言葉づかいや礼儀作法を教えてもらい、お守りや破魔矢の初穂料、祈祷料などをお預かりする事はそこまで難しくない筈だと思っていた。
その時までは、そう思っていた。
どうして年末年始でもないのにこの場所にお手伝いが必要なのか、開門時刻になって知ってしまった。
神職の、人の姿となった若い見習い猫さんたちもそわそわしていて「奥方さま、気をしっかり」「俺たちもがんばりますから」と言って不安そうに鳥居のある方を見る。五兄弟は持ち回りで一人ずつ拝殿内でお願いを聞きながら筆を執るそうで今日は末っ子、と言っても歳の同じ猫さんが先に拝殿の奥へ行っていた。
朝早くから人が、と思っていれば皆が一目散にこの社務所めがけてやって来て、あっと言う間に人の列が出来てしまう。
よく見ればガラス窓の向こう側に貼り出してある『お一人様二枚まででお願いします』の筆文字。
ああ、と私は溜め息が漏れてしまった。
「縁切りの噂もさることながら、我々の姿を模した巾着袋がどうやら人の子の気をひいてしまったようで」
瞬く間に木箱の中から消えて行く巾着袋やお守り。初穂料をお預かりする私の隣で一生懸命に紙の袋に納めているたまちゃん。他の見習いの子たちも宮司さんに書いて貰う御朱印の案内や午前と午後からの祈祷の案内、私と並んで窓口で手を動かす子ともうそれはそれは猫の手を借りたい程で。
昼を前に今日の分の巾着は無くなり、それが分かるとまたあっと言う間に人が消えて行く。
「たまちゃん、大丈……あ、駄目そう」
まさに放心状態。
たまちゃんは薄く唇を開いて斜め上の宙を見ていた。
普段、国芳さんのいる猫寝殿はとても静かで、時間もゆるやかに流れている。そんな所から急に忙しくなってしまえば……と振り向けばもう社務所詰めの四人の見習いの子たちは猫の姿に戻って、畳の上で腹這いになって完全に伸びていた。多分、拝殿に詰めている子も同じだろうな、と感じる。
「たまちゃんも、少し休んだ方が」
「いいえ……たまはすず子さまのお世話係で、みなの先達……こんなことで……にゃ……にゃあ」
隣でぽすん、と音を立てて白い猫の姿に戻ってしまったたまちゃんが申し訳なさそうに私の足元に頬を寄せる。
「どうぞ」
乗って、と言えば膝の上にぴょんと飛び乗ってすぐに丸くなる。
「おや、可愛らしい白猫の御嬢さんでしたか」
「宮司さん、この忙しさの理由……ネットで広まって……?」
「そうみたいです。あの巾着は見習いさんたちが自ら考え、生地は私が用立てて、縫製はこの地域の福祉作業所にお願いをしているのですがどうにも、私たちの考えを超えて広まってしまったみたいで」
「では一枚一枚、手作りで」
「ええ、それぞれに心の籠った大切な物なんですが」
今日は人間の浅い欲望をまざまざと見てしまった。
疲れているたまちゃんを連れて戻ったのは日が暮れはじめる少し前のこと。昼を過ぎてからの時間は参拝客も少なく、五人と宮司さんで大丈夫との事でまた明日、手伝いに行くと言って本殿裏手の木戸を押し開いた。
「どうした、浮かない顔をして」
「……見習いの子たちが疲れてしまうのも無理ありません」
戻って来た私は国芳さんの執務室の一段下の隅で報告がてらお茶をさせて貰って、たまちゃんには部屋で休むよう伝えていた。
私の足元には肉球の刺繍の入った綿の厚い座布団。
すり、と指先で刺繍に触れる。
自分も最初は不埒な考えを持って神社を訪れていた。
それでもあの清々しい景色のお陰で心は変わり、国芳さんと出会い、願いは聞き届けられたのかおみくじでは大凶だった私も今は“良い方”へ向かっていると感じている。
それなのに、あの人だかりのなかで神様に御挨拶をして、あの清々しい景色を見回し、深呼吸をした人はどれだけいただろうか。
信仰心の前に、我々には人としての礼儀があった筈。
「浅ましいな、って……」
そんな言葉が当てはまる。
そしてそれはかつての自分と同じだった。
「お前の心根にはしっかりとした思慮がある。神は心を入れ替える者を見ているぞ。あのつぶらな瞳でな」
「国芳さん……」
「湯あみでもしてきたらどうだ。明日も行くのだろう?」
あんな状況、放っておけない。
もう少し動線を考えて、何か工夫できれば負担が減るかもしれない。
「ではお先に、失礼します」
「ゆっくり浸かると良い」
「はい、お言葉に甘えさせてもらいます」
国芳さんの執務室から出れば黒光さんと入れ違う。
「ああ、すず子様。ちょうど蒐集の間に顔を出した見習いと会いまして……喜んでいました」
「本当ですか?でも、私も必死で……また明日行ってみて、色々考えてみたいと思います。あの、私が口出しと言うか、そう言う事をしても大丈夫でしょうか」
「すず子様は神にも、国芳様にも気に入られている。それが“良い行い”ならば誰も咎める事はありません」
「良かった……少し、頑張ってみます」
失礼します、と一礼をすれば黒光さんも同じように一礼をしてくれた。
礼儀、と言うものは相手を思いやることなのだと自分の心にも今一度、留める。