『逆、猫吸い譚 ~雄の三毛猫、三条国芳は今日もすず子の匂いを吸う~ 』
「黒光さんを現世に向かわせたんですか」
着替えてからもそのまま、国芳さんの寝所で横になっていた私。その様子を見に来てくれたのは私が現世の食べ物を軽く口にするお昼の時間の少し手前。たまちゃんは今、果物を用意しに行ってくれている。
そして私の代わりに……そんな大したお手伝いは出来ていないのに、猫の神使の中でも国芳さんに次ぐ偉い猫さんの黒光さんが神社に向かったと聞いて思わず眉根を寄せてしまった。
「あの五兄弟と神社に訪れる人の子の様子の視察も兼ねている。そう言った事は初めてじゃない」
「それなら、そこまでは気が引けませんが……それであの、これの事なんですけど」
聞きたかったことは素直に聞こうと思って、手のひら程度の小箱をつつ、と国芳さんの方に向ける。中身はたまちゃんが席を外した時に確認していた。
「すず子お前、猫の生態にも“色々と”詳しいだろう?」
「ええ、まあ……好きなので」
「俺は……お前を傷つけてしまう恐れがある」
「やっぱり、人の姿をしていても」
「いや、一応全て分かっているつもりなんだが万が一、変化が中途半端に解けてお前の体を傷つけてしまったら、と思うと集中出来なくなる」
獣の耳も無くせるがこっちの方がお前の声が良く聞こえるしな、とまたそっちの話をし出したので「しっぽとかは……昨日、見あたらなかったような」と話題を変える。
「揺れる尾のせいでお前の気が散るかと思って寝間着は全て脱がずに押さえ隠していたからな。消し去る事も勿論出来るが……夜にでも見るか?そもそもお前、猫の姿の俺を見ているだろうに」
確かに、癖毛を纏った長いしっぽがあったのは知っている。
「これ、わざわざ買いに行ったんですか」
「当たり前だ。お前は俺の番なんだ……それくらいの事、させてくれ」
思ったよりも国芳さんは私の体の事を考えてくれている事が知れて良かった……にせよ、お昼ご飯を少し頂いたらお風呂に行って体を流せば少しはこの甘くて気だるい気分も良くなるだろうか。
いつまでも国芳さんの寝所に居座っている訳にも行かない。
・・・
――あれから二日後。
庭に降りて、散策をしているすず子の後ろ姿を俺は眺めていた。時折、隣に控えている玉に何か聞きながら頷いているその姿に見える清い気配。
「この清浄の中で洗練された、と思っても宜しいのでしょうか」
「そうだな……うん、そういうことにしておいてくれ」
座布団の上には栗色の野鼠……神が芋の欠片を持って俺と同じようにすず子の後ろ姿をのんびり眺めている。
「ひとのことわがけんぞくがつがいとなる……ぜんれいはなくともおまえたちはそういっためぐりあわせ。こんご、そういったことがおきたさいにはよきてほんとなるであろう」
それに、と神は言葉を続ける。
「このいも、うまいぞ」
「ああ……すず子と玉乃井が神社の裏手で宮司と一緒に収穫をしたと聞きました」
「みなもたべるとよい」
正式に番となる事をすず子と二人で神に申し上げたのは昨日。すず子がしっかりと動けるようになってからの事だった。やはり神はこうなる事を予め見通していたのか普段俺が清書をした願いを届けに行く謁見の間に辿り着く前に、既に野鼠の姿となって顕現していた。そして今日も気になったのかこちらに降りてきている。
「有り難く、頂戴仕ります」
一礼をして顔を上げた時にはもう、神は芋のかけらを口に咥えて廊下を走って行ってしまった。
そうすれば反対側から黒光が気まぐれな神を探して廊下を走って来る。
「国芳様!!どうしてお引き留めにならなかったのですか!!」
俺に対して怒る黒光の声に気が付いたのかすず子と玉が振り向いている。
「全く……人の子の肉体を持ちながらあの日に日に磨きが掛かる美しさ……あなたの精気を分けただけの話ではないのでは」
「それを今、神に聞いていた。問題はない」
今のところは、な。
確かに人の子と神使が番になった前例はなく、俺が推し量れる事には限りがあった。
その先を神は教えてくれない。
俺と交わる前からだ。
すず子の姿は以前より洗練されてきた。
そして俺には一つ、気がかりな事が出来ている。
俺の執務室にはあの日、さらったすず子が身に着けていた現世の装束と小さななめし革の物入れ、履き物がつづらの中に納められている。彼女に考えがあっての事なのか、それとも……ここでの暮らしで記憶から薄れてしまっているのか。
俺は狡い。
あれらを返してしまったらすず子に里心が芽生えてしまわないか、心配だったのだ。
俺の妻で……番であって欲しかった。
強い独占欲。
ここは俗世ではないと言うのにこの感情。
思い出すのはあの肌を重ねた濃密な匂いの記憶だった。