『逆、猫吸い譚 ~雄の三毛猫、三条国芳は今日もすず子の匂いを吸う~ 』
広い板の間を縁どるように巡らされている同じく板張りの幅のある廊下、確か広縁と言うんだったっけ。
どれだけ広いんだろうと言う庭を眺めるようにあつらえられた私と、人ではない人のお茶の席。二つ並べて置かれた座布団にはやっぱり肉球の刺繍があった。
「お前は死んでいないし、こちらとあちらは紙一重。俺ほどの者ならお前をこちらに置いておくなど造作も無い事」
置いておく、とは。
さっきからこの人――三条国芳、と名乗った人のような人は、ああもう面倒くさい。猫の耳のようなものが生えている人は自らを『猫王』と名乗り、その立場は“神の使い”とのたまった。
“人にも妖怪にも非ず、神の眷属の神使である”
狛犬や鹿などがいるだろう?あれの猫だ、と言われて私は納得してしまうーーと言うか、本当にこの人は猫なんだ。
会話が落ち着いた所で出して貰ったお茶を粗末にするのも、と思っていただきます、と口を付ける。少しぬるくて、でもお茶は確かこれくらいの熱すぎない温度で出されたりもするし……猫なら熱いものが苦手なのかな、と改めて隣の三条さんを見る。
派手な色打掛みたいな着物を肩に羽織っているけれどそれに負けない美貌、と言うのだろうか。年齢は私より少し上の四十手前、くらい?細くてもくっきりとした目元、瞳そのものは赤茶に少し深緑が混ざったような濃い色で顔立ちはまるでおしゃれな男性誌のモデルさんみたい。髪はゆるい癖毛が邪魔にならない程度に短かった。
でも、その髪の色は……少し薄暗かった板の間から広い廊下に出て来た事で光に当てられ、不思議な色合いをしていた。室内では黒髪かと思っていたのに今は明るい茶にも、強く光が反射した部分は白く輝いているようにも見えてまるで三色の髪の色を持っているかのよう。
「三色……三毛……まさか、おみくじの箱の上にいた癖っ毛な三毛猫さんは」
「俺だが?」
丸い湯呑を手に非常にあっさりとした答え合わせ。
あの三毛猫、やっぱり雄……男性?だったんだ。
ぴんと上がっていたしっぽの後ろ姿で丸いの、見えちゃってたから。
「顔が赤い」
「え、いや……別に、そんな事」
急所と言うか、大切な所を見てしまったと本人には言えない。
「そうではなくて」
「おお、どうした」
面白そうだと期待をしている表情を前に「なぜ、私をこのような場所に連れて来たんですか」と問う。意識が戻った時からこの三条さんは私の事を“嫁”と言って、しかも胸元の匂いを凄い吸っていた。
肝心な所の説明をしてください、と伝える。
「お前、死相が出ていたぞ」
「え……」
「神に願いを申す前、何を考えていた」
「あ、っと……それは」
神も俺も、お前を見ていたぞ、と三条さんは言う。
それは私の姿ではなくて、心の中の話なのだと悟る。そうだ、私は“人間関係の縁を切る”為にあの神社を訪れていた。
それでも、清々しい空気や厳かな佇まいの拝殿やその奥に建っている本殿を見上げていたら考えは変わって。しんと澄み渡る清らかさを肌で感じ、縁を切って欲しいなどと言う寂しい考えよりも自分の、今の生活が少しだけ良くなりますように、とお願いごとを伝えた。
「心変わりも知っている。いや、聞こえた。だがな、お前は今も死相が僅かに拭い去れていない。それにお前は俺好みの良い芳香を持っている。だから今すぐにでも食っ、て……」
私は何も言えなくなっていた。
そして三条さんも黙ってしまった。
「すず子、その死相……拭いたいと思わんか」
さり、と布が擦れる音がする。
お茶が用意されていた猫足の膳台が端によけられて、三条さんが私の顔を覗き込む。
ふに、と柔らかい手のひらが私の頬を細く伝っていく涙を拭ってくれていた。
「泣くな、泣くなら俺との床で啼け」
何言ってるの、と涙も引っ込んでしまうような三条さんの慰めにもなっていない言葉に本当に涙が止まれば彼は目蓋を細めてにっこりと笑っていた。
端正な美貌がすぐ側に。
猫の耳もあるけれど。
「なあすず子、俺のもとで暫く暮らさないか。不自由な思いはさせん……ここは、良い景色だろう?」
三条さんは言う。
自分たちには人間の魂を少し、癒す力があるのだと。
あの誰も人の居なかった境内も、あの清々しい風も、木々の囁くような心地よいざわめきも、神様や三条さんが気になった人間を迎え入れる為に、持て成す為に用意した場なのだと言う。
私はあの風景のお陰で、願いを変えた。
前向きになるように、と。
三条さんが深緑の瞳を向ける庭は木々も花々も美しく輝いていてこの世の物とは思えない……本当に私がいた場所とは隔絶されている、神様がいらっしゃる場所に近いのだと知る。
「俺が爪の先で選んでやった御籤、大凶だっただろう」
「はい……見事に、どん底」
「それは“今”の事だ。これから、良くなる」
「そうなんですか」
「ああ、俺の嫁になればもっと、床の中で得も言われぬ良い思いを」
だからどうしてお嫁さんとその、男女の営みがセットになっているのだろう。まあ確かにそれは必要だけど……人それぞれだ。
「……お前には時間が必要だ。好きなだけここに居ていい。偶然訪れた旅先の上げ膳据え膳の旅館、とでも思って気楽に過ごせ」
「でも私、仕事とか」
「案ずるな。俺は猫の神使の中でも頂点の猫王だ、どうにでもしてやるさ」
だからもう泣くな、と私の背をぽんと撫でた三条さんの手が優しくて、私は神様の御使いだと言う彼の提案に「少しだけ、お世話になります」と頭を下げた。