『逆、猫吸い譚 ~雄の三毛猫、三条国芳は今日もすず子の匂いを吸う~ 』
電車とバスをまた乗り継いで私と国芳さんが現世と神域を結ぶ神社の裏手にある門の扉を開いたのは日が落ちる寸前。一応、閉門時間には間に合ったので宮司さんに職員用通用口の鍵を返そうとしたら預かっていてもいい、とのこと。信頼に感謝の言葉を述べて、失くさないようしっかり管理をします、と伝えてから私と国芳さんはまた、本殿の裏手にある木戸を潜った……のだけど。
――私と国芳さんのいなかった猫寝殿では事件が一つ、起きていた。
西の門のすぐ近く。靴を脱いで上がった私の胸に腕を伸ばして思い切り飛びついて来たのは白い猫の姿のたまちゃん。それを追いかけてくる黒光さんがとても焦っているようで国芳さんが「またお前は足音を立てて」となじってはいたけれどたまちゃんの様子がおかしい。
「どうしたのたまちゃん」
しがみついて離れないたまちゃんを片腕で抱き、とりあえず国芳さんにずっと持って貰っていたトートバッグをもう片方の手で受け取りながら「部屋に行っていますね」と声を掛ける。
たまちゃんに抱き付かれ、着替えもままならない。
小さな手でもしっかりとしがみついてくれているので片腕で支えながら荷物を下ろし、座布団の上に足を崩す。
「たまちゃん……」
ぎゅう、と私の胸と脇の間の隙間に小さな顔を挟んでしまっている体が少し震え、短いしっぽも丸め込んでいるのが分かる。なにか嫌な事や怖い事でもあったのかもしれない。でも、黒光さんがたまちゃんにそんな思いをさせるとは到底思えなくて、とりあえず僅かに震える柔らかな背中をさする。
「黒光さんと喧嘩した?」
びく、と背中の毛が緩く逆立つ。
「仲が良さそうだな、って思っていたから……私の想像と違っていたら申し訳ないんだけどたまちゃんは黒光さんの事が」
好き?と問う。
緩く逆立ってしまっていた毛を落ち着かせるように撫でて、否定をしないたまちゃんの首筋を撫でる。
そう、やっぱりたまちゃんは黒光さんの事が好きだった。
ある程度落ち着いてきてもたまちゃんが人の姿をとらないとなると……余程、黒光さんの事に関してショックな事があったのかもしれない。それに普段、黒光さんは寝殿に降りて来てしまった神様の事を追いかけてはいるけれどあの焦り方はその時とはまるで違っていた。
暫くたまちゃんを膝に乗せていれば感情の揺れに疲れてしまったのか、私の腕に支えられながらうとうとと眠り出す。動けないな、と……そんな温かな重みは私の眠気までゆっくりと誘ってきて、私も今日は疲れていたせいもあり、そのまま崩れるように一緒に眠ってしまった。
「すず子」
そっと肩に手を置いて揺する低い声に瞼を開ける。
夜はとっくに更けていて、それなのに国芳さんも私も現世に行った時の姿のまま、もう辺りに置かれている蝋燭には火が灯っていた。
「たまちゃんは……」
「今しがた部屋に帰した。明日は休むよう伝えてある。お前も着替えて寝た方がいい」
「ええ……たまちゃんが温かくて、つい。あ、でも……お風呂に」
パウダーだけのごく薄い化粧とは言え洗い流したかったし、ひと眠りした所で目も冴えてきた。
私の服の胸元にはたまちゃんの白い毛が数本刺さっている。横になってもずっと抱っこをしたままでいたから安心してくれたのか、私もたまちゃんが降りたことに気が付かない程よく眠ってしまっていた。
「あの、たまちゃんが怖がっていたと言うか、ずっと猫の姿のままで」
「それなんだが……黒に問いただしたらどうやら玉が誤解をしている、と。いや、黒も悪いんだ。あいつ、他の雌によく迫られていてな」
「じゃあ国芳さんは二人の仲を知って」
まあな、と頷きながら国芳さんは夜の庭を見る。
「黒光は昔から玉の事を溺愛している」
国芳さんから“溺愛”などと意外な言葉が出てきた。
それくらいに黒光さんはたまちゃんのことが大切、と。確かにあんな風に、壊れてしまわないように、優しく抱っこをしていた黒光さんと大人しくしているたまちゃんの……まるでこちらが恥ずかしくなってしまうような光景を以前、目撃している。
たまちゃんを神社に連れ立つ私にも黒光さんは「目を離さないで欲しい、外は危険だから」と無意識だったのか、たまちゃんを守ろうとする言葉がいくつか混じっていて。
それらの小さな言葉の一つひとつが、国芳さんの言葉で裏付けられていく。
「俺が現世で玉を拾って来た時からだ。腹が減って、白い毛も灰色に汚れて……瞳ももう常世の方を向いていた。呼びかけにすら反応が無くてな。置き去りにするのも忍びなく、寝殿に連れ帰って花が群れていた良い場所に寝かせていたんだ」
ここに来ればお腹も減らない、喉も乾かない。
静かに、肉体と魂が離れられる。
「俺も時々様子を見に行っていたんだが……まさかあいつが面倒を見始めたのには驚いたよ。そうだ、あの時も桃の汁を飲ませてやっていたな」
庭に様子を見に行ってみれば花の上に寝かしていた筈が座布団の上に寝かされており、また次の時にはすっかり姿が無かった。
懐かしそうに語る国芳さんの横顔が月明かりに照らされて……癖っ毛の髪色は白く光る。
「まだ魂だけの存在になるには時間がかかるか、と思っていたら黒が勝手に自分の部屋に連れ込んで抱いていたんだ」
「それちょっと語弊がありますよね」
私の指摘にそうだな、と笑う国芳さん。
これ、もしかしなくてもたまちゃんに悪い影響を与えている張本人かもしれない。
「小さい、まだ現世では一歳にも満たない野良だった玉をあいつが腕の中で温めて……ただそれは尽きかけた肉体。黒の珍しい行いに無理に生かさず庭に寝かせておいてやれ、とは流石に俺も強く言えなくてな」
「それでたまちゃんは今の」
「ああ。お前も知っての通り、物好きな神は黒の行いも加味して玉に神使となるよう肉体と魂が剥離する前に新たな“使命”を授けた。玉は特別、神から能力を授けられた神使なんだよ」
私の知らないたまちゃんの過去と黒光さんのお話。
つい、聞き入ってしまって国芳さんを部屋に長居させてしまう。夜が明ければもう仕事をしなくてはいけないのに。
「それで、だ。黒に他の雌の匂いが付いていたんだと」
「あー……あらら」
どうやら黒光さんは他の女の子にモテるようで。
黒い艶のある短毛……以前、国芳さんも言っていた。
でも黒光さん、今日は私と一緒に出掛けていた国芳さんの代わりに執務室にいた筈。だから外部との接触は……。
「すず子、お前の小袿が届いたんだ」
「小袿……って、つまり」
「花嫁衣装。俺が玉と黒に用立てて欲しいと頼んでいた物だ」