『逆、猫吸い譚 ~雄の三毛猫、三条国芳は今日もすず子の匂いを吸う~ 』
「黒が……珍しいな。あまり誰かを頼ると言うことはしない奴だったが、玉があんなに懐いているお前なら気が許せたんだろう」
結局私は黒光さんを見送ったあと、国芳さんの執務室にお邪魔をしてしまう。だって、どうしようもなかったし……二人の事にはあれ以上、介入できない。
「黒光さんご本人の口から、たまちゃんと番になりたいのだと聞きました」
縫い物で気持ちを落ちつけようと糸を通す。
一本に五色の色が順に染めつけられている綺麗な糸はたまちゃんが私に分けてくれた大切なもの。無駄にしないように丁寧に丁寧に刺繍を施す。
「小袿は奥の部屋に掛けさせたが」
「たまちゃんや黒光さんも一緒に、お礼もしたいしお土産も渡したくて」
「お前ならそう言うと思ったよ」
揃ったら見に行くか、と言う国芳さんに私も頷く。
二人だけの静かな時間。時々、国芳さんが筆を執って清書をしているごくわずかな物音を聞いていたらなんだか眠くなってきてしまって、昨日は随分遅くに寝たから……と壁に寄り掛かったままうとうとと眠りそうになってしまった。
「すず子、眠るなら俺の寝所で横になれ」
「ん……」
眠い目を開けて、いつの間にか目の前にいた国芳さんが布と針を小さなつづらに納めてしまう。
一人でもいいのに寝所までついて来てくれる人に寝かし付けられるように、良い匂いに包まれながら私は瞼を閉じる。
目が覚めてもまだ明るく、お昼あたりかな、と体を起こす。
黒光さん、たまちゃんの組紐を返せただろうか。
「まだ眠っていたらどうだ」
「ひ、」
びっくりさせないでください、と丁度様子を見に来てくれたらしい国芳さんにいきなり声を掛けられてびくっと身を竦めてしまった。
「猫か」
「一緒に暮らしているせいでしょうか……黒光さんにもそんな事を言われました」
「だろうな。お前のその丸まった寝姿、殆ど猫だぞ」
確かに、なんだろう……国芳さんの匂いを感じて安心しているからなのか、以前は仰向けの直立不動で寝ていて、起きる頃には逆に疲れていたくらい。なのにこちらで暮らすようになってからは全然、腰とか肩も痛くないしお裁縫をしていても目もそこまで疲れない。リラックスできている分と、ここが“清浄”であることが関係しているのかもしれない。
「黒光さん、ちゃんと渡せたでしょうか……」
「それなんだが、まだ玉がべそをかいていると」
「え、黒光さん来たんですか」
「流石に、お前のところに朝から押しかけて迷惑を掛けた、と言っていた」
「全然そんな、私は迷惑だなんて……でも、渡せたんですね」
あの組紐がどんな物なのか教えてくれた時のたまちゃんの表情を覚えているからこそ、心配になっていた。
「まだたまちゃん、駄目そうですか」
「あー……まあな。なんと言うか、まあ……」
珍しく言葉を濁す人。
耳がぴくぴくとせわしなく動いている。
「猫をあまり見つめるな」
「人の姿なのに」
「習性が残ってるんだよ」
言葉が先に進まない国芳さん。
頬が軽く色づいている、と言うことは。
「まさか黒光さん、流れに乗じてたまちゃんに手を?それは流石に」
「いや、口吸いすら出来なかったらしい。玉が怖がって本当に泣いたんだと……俺も言えた義理じゃないが……」
私の唇をいとも簡単に奪った人が身近な、いわば側近中の側近である二人の仲のあれこれについて語るのは流石に恥ずかしいのか、言葉尻がしぼんでいく。そう言う適切な羞恥心を持っているのならもっとこう、私に対しても……じゃなくて。
たまちゃん、この目の前の人の悪影響なのか際どい発言が多かったけれどいざ自分がそう言った状況に置かれてしまったら怖くなってしまったみたい。黒光さん一筋ならなおさら。
匂いを吸ったり吸われたりするのは猫同士のコミュニケーションの一環だとしても、人の姿で唇を重ねる事は未知の領域だったらしい。
「お前は怖くなかったのか」
「だから嫌がったんですけど」
「すまない……」
本当に反省しているらしく国芳さん耳が完全に横に倒れている。
「神使として暮らしている年数が長けりゃ、色々と人の子の営みも見聞きして覚えて来た……が、いざ自分たちの事となれば分からない事ばかりだ」
「黒光さん、もしかするとせっかちさんなんでしょうか」
私の前ではしっかりと冷静に話をしてくれた黒光さんだけど、たまちゃんのことを追い掛けたりしていた。それに今、目の前でお仕事をさぼっている人もせっかちと言うか「匂いにあてられた」とか取り繕うように言い訳をしていたな、と思い出す。
どうやら番になりたい、と惹き合う匂いを吸ってしまうと理性が揺らいでしまうらしい。
それを考えると黒光さんがたまちゃんを介抱したのも始めから彼にとって一番いい匂い、惹かれる匂いだったから……なのかも。それなら話の全てに納得がいく。