『逆、猫吸い譚 ~雄の三毛猫、三条国芳は今日もすず子の匂いを吸う~ 』
第九話 すず子の首飾り
そのまま仕事の時間なのだと黒光さんに連れて行かれた国芳さんを見送って、私はたまちゃんに色々と教えて欲しい事があると伝える。
特に水が汲める場所。清浄な神域にあるこの寝殿、汚れや埃とか見当たらないのだけどなんとなく……人の性なのか掃除がしたくて、申し出る。
現世に通う事もまだまだあるけれど、こちらにいる時にしているのは巾着の生地への刺繍だけ。他にも出来る事は、と考えた末に“掃除”に行きついた。
「すず子さまのお部屋は西の間、一番近い水汲み場所はいつも出入りをしている西の門へ降りる階段よりも先の……こちらです」
たまちゃんに先を行って貰いながら案内を受けていれば普段、開いている所を見たことが無い廊下の突き当たりの木戸の前に差し掛かる。たまちゃんがその戸を横に引いて開けると目の前には屋根のついた外廊下と、それに繋がる神社にある手水舎のような建物があった。
「降りられるときはお足もと、気をつけてくださいね。たまはもう十回はころびそうになりました」
三段程の階段で下に降りて、屋根伝いに行けば雨の日でも濡れずに行き来が出来るようになっていた。
「建物そのものは平安時代の寝殿造りみたいな、でもちょっと所々が江戸……近代的なような……」
「そうですね、たまはお仕えしてまだ五十年ですが増築とかいろいろ……国芳さまが現世で見て来たいいところを取り入れているのです」
「なんとなく、お手洗いがとても近、現代的だったのも」
「私たちも神使として現世に行くことがありますから、何かあった際にまちがってしまわないように現世の人の子の営みを取り入れたのです。あ、でもすず子さまが使いにくいようでしたらたまが言いますけど……」
トイレがトイレだった衝撃。
多分歴史の教科書か何かに書かれているような、昭和よりも前のような古い感じではあったけれど普通に陶器製の座るタイプで、しかも紐を引っ張ったら水が流れた。その先はどこに繋がっているんだろうと思ったけれど……詳しくは聞かない。ここは神域、私が推し量れるような場所じゃない。
それに天気も、神社にお手伝いに出ていて曇りだった日、神域の中であるこの寝殿のある場所も曇っていた。だから天気は現世と通じているのか、神様がそうしていらっしゃるのか。
不思議な場所を追及したって私は人間、受け入れるしかない。
改めて、ここは私のいた世界とは違うと知る。
「たまちゃんのお部屋とかは……」
「たまの……?えっとこの水汲み場をこのまま真っ直ぐ行ったさきにある扉の奥、別棟のなかにあります。夜、本殿にいらっしゃるのは国芳さまとすず子さまだけですよ。黒光さまもここと対になっている東の別棟に」
そうなんだ。
私、本当に今更だけど夫婦の夜の時の声を極力我慢して――結局は酷く啼かされるけれど、誰も近くにいないと分かって本当に良かった。
「すず子さま?お顔が赤いです」
たまちゃんのきらきらした瞳に見つめられて視線を逸らしてしまった。
本当にどっちが猫なのだか。
今日は色々とたまちゃんに聞きながら寝殿をぐるぐると回っていた。庇のある外周の回廊、降りられる場所……とにかく広い猫寝殿。
それでも、他の猫さんたちと遭遇しないのは所々にある扉のせいなのかもしれない。たまちゃんや黒光さんは自由に出入りが出来ても他の猫さんは扉の前までの決まりがある、とか。
そうしてお昼近くになり、執務室に訪れた私とたまちゃんを出迎えてくれた国芳さんは「黒は先に行っている」と席から立ち、東のお部屋へ行く道すがらに私の疑問に答えてくれていた。
「他の猫を見かけない理由ならある。神の居る神殿の方が圧倒的に寝心地が良いからだ」
「は……」
「ここは現世と同じ天気、気温。嵐の日もあればあまりにも暑い日など様々だ。だが神の居る場所は常に温暖で、その辺で寝転がるには最適の気温。とは言えここも神域、清浄の空間。多少の埃は光の粒になって消えて行く。猫が集まるのは政や大掃除でもする時くらいで玉がいるだけで普段は大体が賄えている。ああ、気質が特異な長毛猫が冬に庭を駆けまわりに来るか。寒い地域の生まれらしい」
正式なお披露目を前にして、私が猫寝殿について何も知らないのも……と思って聞いてみれば拍子抜けするような答えが返される。
「お前の披露目は庭でやる。その準備の為に他の猫の出入りが激しくなるが……まあ、大丈夫だろう。奴らに害はない」
色々と話をしながら辿り着いたお部屋の前。
開けるぞ、と国芳さんが扉を引く。