『逆、猫吸い譚 ~雄の三毛猫、三条国芳は今日もすず子の匂いを吸う~ 』
第十話 特別な匂い
どうして国芳さんの執務室ではなくて、お部屋の方に詰め込まれてしまったのだろうか。そしてまだ昼前だと言うのにお風呂の支度も……しかも私が使った事のない国芳さんが普段使っていると言うお風呂の方に入るようにたまちゃんに言われてしまった。
珍しく、私はたまちゃんと黒光さんの振る舞いに不服だった。
だって二人は何も言ってくれないし、まだ庭も眺めていたかったのに……国芳さんのお部屋からも外は見えるけれど私の部屋みたいにとても開放的な造りではなくて飾り格子の向こうにだけ、小さな中庭が見える。
隣の部屋は寝所で、いつもお邪魔している執務室も遠くない。
何でもないように装っているけれど明らかにたまちゃんは私を庭が見渡せる西の部屋に帰さないつもりらしく、着替えの入った風呂敷包みを抱え、いそいそと動いている。
お風呂の支度をしてくれるたまちゃんをじっと見つめてみてもそそくさと行ってしまうし、黒光さんは本当にあれから一度も姿を現していない。
まあ、忙しいのだろうけど……何かおかしい。
そしてそのまま、まだ明るい内から連れて行かれる国芳さんが使っている方のお風呂。
私が使わせて貰っている所を一回り小さくしたような場所で勝手も分かっているけれどたまちゃんは「たまのことは気にせずにゆっくり、ゆーっくり、浸かってくださいね」と言う。
それならもう、仕方なく一人で露天風呂に入るしかない。
でもお風呂に入っちゃうとどうしても眠くなってしまうと言うか、ほぐれた体が心地よくてひと眠りをしたくなってしまう。疲れているとなおさら、その心地よさに瞼が勝手に閉じてしまう。
ぬるめのお湯に浸かりながらぼんやりしていれば西の方、私の部屋の前からしていた木材を組んでいた音がいつの間にか止んでいる事に気が付いた。休憩時間なのかな、と思っていたけれどそれはお風呂から上がり、たまちゃんに髪を拭って貰っている間もまるでいつもの寝殿のように気配とかも静かになってしまっていた。
「すず子さま、少しねむるようでしたら」
なぜか、いつもより眠い気がする。気分もどこかお酒に酔ったみたいにふわふわしていた。
髪が乾いたらそのまま、たまちゃんに勧められるままに隣の寝所に通されて綺麗に敷かれている二人分の布団に目を細めた。どうやら今日はこのままここに泊まっていけ、との事。
それは別に構わないのだけれど……やっぱり何かがおかしい。
でも私は眠くて、たまちゃんが出て行ったあと暫くは布団の上に座っていたけれどついには横になってしまう。
国芳さんの方の枕元には小さな物入れの木箱が一つあって、私はその中身を知っていて。寝転がったまま伸ばした腕の指先で小突いてみる。
本当に、どこで買って来たのだろう。
ふ、とこぼれる気恥ずかしさと私の体の事を考えてくれている国芳さんからの愛情に風呂上りの私はそのまま……寝そべった姿で寝てしまった。
・・・
黒が血相を変え、珍しく手ぬぐいで口元を押さえながら執務室にやって来た。ついさっき、披露目の舞台を組み上げている猫たちに指示を出しに行っていた筈なのだがその頬には朱色が差している。
血色が悪い奴でもないが、珍しいことだった。
「国芳様、今日は昼で仕事を切り上げ、庭からも人払いをした方が」
「どうした」
「いえ、私が言うのは大変不躾なのですがすず子様の匂いに少々……神の気も混じっているからでしょうか」
「すず子の……?」
ああ、言いたい事が分かった。
俺がすず子の匂いを愛するように黒も玉の匂いにだけ“反応”するが今日は違う、と。確かに俺の悪ふざけで傷付けたすず子の肉体と魂についた僅かな傷を治す為、神が直接葡萄を下賜し、その気が見事にすず子に馴染んでしまった。
あの内面からにじみ出る何とも言えない美しさは神からの賜物であり……それに俺たちは皆、神の匂いが好きだった。
つまり、すず子の匂いが何かの拍子に強まる時には黒でさえもあの甘い匂いに“あてられる”と言う事。
「俺たちは雄だからな」
「申し訳ありません。玉乃井もどことなく異変に気づいているようで……庭に匂いが流れてしまわないよう、すず子様はすでに国芳様の部屋にお連れしています」
「分かった」
だが、俺の部屋にすず子を置いておくと言う事はつまり。
俺がさらう前まで住んでいたすず子の現世の部屋での出来事が思い返される。閉め切られた密室で、あの匂いを不意に大きく吸い込んでしまった時は自分の沸き上がる衝動に正直、焦った。
黒も雄だ、俺とすず子の夜がどうあるのかは勿論分かっている。
「これが終わったら様子を見に行く」
「承知致しました」
「人払いが終わったらお前も今日は上がってくれ」
やっと口元から手拭いを外して深く頷く黒。
すず子の匂いが“特別な物”になっているな、と思う。
他の雄を誘いかねない程に……あの甘い匂いと穏やかな魂の気配に独占欲や上位に立とうとしてしまう獣の本性が出てしまう。正式な番である俺がそうなのだから、他の猫にも相当な物だろう。