『逆、猫吸い譚 ~雄の三毛猫、三条国芳は今日もすず子の匂いを吸う~ 』
翌朝、長い髪の扱いに慣れていない私はたまちゃんに三つ編みは出来るかどうか聞いて「できますよ!!」との事でひと纏めにゆるく編んで貰う。その髪の束を肩に流して西の門の扉を押し開く。
カーディガンを羽織らないと朝晩が肌寒くなってきた秋の日。朝が早い宮司さんが竹箒を片手に境内を掃除されていたので「おはようございます」と声を掛けた。
私がお借りする部屋は水道など開けていないので外に引いてある水道を使って良い、と共用の水栓鍵を預かる。何か不都合があったら社務所に電話をすれば見に来てくれるそうで……でも住民の方は特にトラブルなどもないごく普通の方々との事で勝手に作業をしていても大丈夫だと仰っていた。
私にとって、これほど良くして貰う義理は無いのだけれど――それなら私からお返しが出来れば、と思う。お昼過ぎに年末に向けてのお手伝いの打ち合わせをさせて欲しいと伝えれば「お茶菓子を用意して待っていますよ」と言って貰えて。
掃除用具入れ、と札のついている鍵も預からせて貰ったので少し廊下の掃き掃除くらいできたらいいな、と思う。
まだ開門前の社務所にも寄らせて貰えば普段、猫の姿でそこで寝泊りをしている五兄弟の猫さんたちが一斉ににゃーにゃーと鳴いて出迎え……きっと朝の煮干しを持った宮司さんと間違えたんだと思うけれど覗いた私の姿を見てすぐに人の姿に変化して歓迎してくれる。
「奥方さま!!お披露目までもうすこしですね!!」
その言葉に頷く。
色々と大変だったと言うか、あっという間だったと言うか。
「今日は宮司さんにお借りする部屋の掃除をしに来たのだけど、昼過ぎにまた社務所に寄らせて貰います」
「それならうんと美味しいお茶を用意してお待ちしています」
行ってらっしゃい、と送り出してくれる五兄弟、そして宮司さんに挨拶をして私は神社の外に出る。
部屋の掃除が大きな目的ではあったのだけどもうひとつ……忙しそうな国芳さんの代わりに、その……大切な買い物をしたかった。多分、本当にお披露目が終わるまで我慢する気でいる人を前にして私の方も正直、切ない。
国芳さんと一緒にいると必然的に香るその華やかな匂いが私を酔わせると言うか、そんな状況でお酒が入ってしまうと夜の営みでもないのに恥ずかしい程に甘えた姿をさらしてしまうと言うか。
預かった鍵でドアを開け、中に入って窓を開ける。
掃除用に、と手が空いたときに手ぬぐいを半分に切って畳み、周りを縫った即席の雑巾をトートバッグから出した所で手を止める。
左手首に巻いている国芳さんから贈られた首飾り……掃除をする為に水に触れるから汚したり濡らしてしまっては、と鏡を探しに洗面所の扉を開いて手首から外すと首元に付け直す。
今は神様の素敵な悪戯で髪も長くて三つ編みだし、よく合う。
国芳さんが贈ってくれた大切な首飾りだもの、といつもの首もとに戻った組紐。その鈴はやっぱり着脱をしている最中も不思議と鳴らなくて。
加工のされていない神社や寝殿の板の間と違ってフローリングに直接水拭きするのは、と思いとどまって乾拭きだけをする。それでも窓とかも拭きたかったし、と換気をしながら私は部屋の環境を整え始める。
これから神社も忙しくなるし、すす払いなど大掃除も待っているそうだから頑張らないとな、と窓の四隅も丁寧に拭きながらあれこれ考える。途中、考え込みすぎて手が止まりそうになってしまったけれど掃除はなんとか予定通りの時刻に終わった。
こんな感じかな、と多くは無い私の物を運んでも一先ずは大丈夫そうなくらいの掃除。最後にアパートの廊下も箒で軽く掃き掃除をしてからバケツなど借りていた掃除用具を片付けた。
よし、と部屋の施錠をしっかりと確認してから私は意を決して買い物に出る。コンビニやスーパーの方がセルフレジが多いかな、と宮司さんにあるお店が場所をあらかじめ聞いていたのでトートバッグの持ち手を握り締めて向かう。正直、ソレを自分で買った事が無かった。
もしそう言う必要な状況だったなら間違いなく通販を選んでいる。
でも、と自分に言い聞かせて散策がてら神社やアパートから離れて一人で暫く歩いていれば今まで感じた事の無い人の視線と言うか、妙な感覚に少し肌がざわつく。涼しいから、とかじゃなくて……なんだろう、と立ち止まりそうになるけれど原因は分からない。
ふと、首元に付け直した組紐の鈴飾りに指先を添えてぎゅっと唇を結ぶ。
自分の感覚が普通の人とどこか離れて来ているのは分かっている。
だからこそ、この肌がざわつく気配の出所が分からない事が不安だった。
ついに立ち止まってしまった私は辺りを見回す。
すると道路の向こう側、なんだか黒いもやのようなものが体にまとわりついている男性がこちらに向かって歩いて来て……まだ遠いのに明らかに私と目が合ってしまった。本能的に近づいてはいけない、とすぐに神社近くまで引き返そうとすれば細い路地から出て来た手にぐ、と腕を掴まれる。そのまま路地に引きずり込まれ、首に絡みつく“何か”に口もとを覆われてしまう。
そのせいで助けを呼ぶことも出来ず、呼吸すら満足に出来なくなってしまった。
(いや、助けて……!!)
途端に滲む冷や汗とちりん、ちりん、と首に着けている組紐に付いている金色の小さな鈴が鳴る。首元に巻きつく冷たい“何か”に抑え付けられていると言うのに、鈴は何度も鳴り続ける。