『逆、猫吸い譚 ~雄の三毛猫、三条国芳は今日もすず子の匂いを吸う~ 』
国芳さんに抱えられて神域に戻って来た私に「ご無事で」と黒光さん、それに涙目になっているたまちゃんから「すず子さまご無事でよかったです」と声を掛けられる。その手は不安だったのか黒光さんの黒い羽織りものの袖を握っていた。
「お前はわりと驚かないな」
いつもだったら神社の本殿裏手にある木戸を使って現世と神域を行き来している私。
神様の御使いである猫の神使、その全てを束ねる国芳さんならさっき目の前で見た白蛇の神使のご夫婦みたいに姿をくらますことなんて当たり前なのかもしれない。それに、キジトラさんが私にすりすりをした時に急に現れたのも……同じだったのかもしれない。
確かにあの時、普段は鳴らない鈴が小さく鳴っていた。
色々な事が一瞬で起こりすぎて反応がむしろ鈍くなってしまっている私に「疲れただろう。まだ日が高いが湯あみでもしてこい」と勧めてくれたのでその通りにしようと頷くと「お支度しますね」とたまちゃんがついて来てくれる。
話はどうやらいつものように後で落ち着いてから、と言う事らしい。
昼下がり、脇息に体を預けて私の方の寝所に訪れてくれた国芳さんからお話を聞く。
「すず子の首飾りには俺の猫の髭が一本、芯として一緒に織り込まれている。お前の心が不安に揺れた時、助けを求めた時に警鐘してくれるよう術も施してある」
お風呂上りだったけれど首に着けていた国芳さんからの贈り物の組紐に触れる。もちろん今は触れても鳴らない。
「それならキジトラさんが私に熱烈なすりすりをした時も国芳さんは」
「ああ、お前の貞操が危ぶまれた時だったからな」
「貞操……」
確かに、ぐいぐいと私の口もとにまですりすりをしてきたキジトラさん。
夫である国芳さん以外にそれを受け入れてしまうのは不味いのでは、とあの時私も思っていた。
この鈴の音は身に着けている私以外に国芳さんたちや私の近くにいる神使の方にしか聞こえないそうで、だからあの白蛇の神使さんが“頭に響く”と言っていたのはそう言うことだったらしい。
私の心が揺れ、助けを求めたりした時に鈴が鳴る。
現世で感じたよく分からない恐怖感と突然の事態に鳴り続けた鈴。
あの地域は国芳さんの“縄張り”だそうなので鈴の音がすぐに届いて、仕事中だったにもかかわらず来てくれたそう。縄張りの範囲なら自らの意思で姿を現し、くらます事は造作もない、らしい。
「まあ、俺の都合の良いように出来ていると解釈してくれ。それでも現世の“影”が纏わりつかんように手直しをする必要はあるな」
私が言葉に出来なかった恐怖感の正体。
「願いを焚き上げた際にお前も見たあの黒い煙……墨色だけの願いと似たようなもの。人の子の業、穢れとでも言うのか。神域で暮らすようになって身も心も清浄に近くなったお前がそう言った黒い影に狙われる事を俺も多少は考えていたんだ」
少し前の神社での行事。あの御焚き上げの時に見た一筋の黒い煙の存在。縁切り神社と噂されている場所だから時々、人間の黒い感情が形となって現れてしまう。
それに私は少し、人と違ってきているからそう言った黒いものを呼び寄せてしまうらしい。
「神の取り計らいによって伸びた髪と言い、清浄の気を食らおうとしたんだろうな」
「でもそれだと……その人は、何か希望や願いのようなものをまだ心に持って」
「ああ。だから俺たちは墨で塗り潰れた願いも神に届くよう焚き上げるんだが」
縋りたかったのかもしれない。
かつての私がそうだったように……今でも私は出来た人間じゃない。不完全で、俗で、国芳さんの事となるともうそれはそれは……猫のようになって、甘えてしまう。
「すず子、買い物に行く途中だったんだろう?」
ぎくり。
「何か必要な物だったのなら五兄弟にでも」
これは流石に言えない。
「だ、だいじょうぶですよ……そこまで、急に必要とか……」
無くても大丈夫と言えば大丈夫、だけど。
国芳さんに私の心の中を読まれてしまうんじゃないかと心配になる。
「み、見ないで、読まないでっ」
胸を押さえても心の中を読まれてしまいそうで頬が熱くなってしまう。細められた国芳さんの深緑の瞳が私の考えを見透かしてしまおうとしていたけれど次には笑って「疲れただろう、昼寝でもしていろ」と私に羽織りものを掛けてまた残りのお仕事をする為に執務室に行ってしまった。
最近、国芳さんが忙しそうに……でも、お披露目があるからそれまでに色々と片付けているのかもしれない。人間もそう、大きな行事がある前は忙しい。
脇息に体を預けたままうとうとしていればどこからともなく、さも当たり前のように大きな体の茶白さんと人好きの長毛なキジトラさんが廊下をのしのし歩いてきて御簾をするりと抜ける。そして私の隣にそれぞれどっしりと、手を体の下にしまうように香箱を組んで、まるでお昼寝を誘ってくるようだったから私も脇息をよけてふかふかの座布団を枕にその場に体を横たえる。
国芳さんの匂いが染みている羽織りものを体に掛けていても全然平気な猫さんたちは私の傍に寄り添って……ふわふわであったかいな、と思いながら眠気に負けてしまった私はその温もりにすぐ、瞼を閉じてしまった。