『逆、猫吸い譚 ~雄の三毛猫、三条国芳は今日もすず子の匂いを吸う~ 』
「だから忠告したのですよ。人の子がこの清浄で生きるには難しいと」
「そんな事、知っている」
「いくらあなたの番に成り得る程の強い芳香を持っていても“現世の物を何も食べていなかったら肉体は滅んでしまう”と……茶でも酒でも、なんでも良い。ああ玉乃井、丁度良い所に」
「あの……神様への御供物にあった桃を頂いて、むいてすりつぶしてきました。神様が桃の汁を口に含ませるとよい、とおっしゃられて」
「謁見したのか」
「葡萄をお食べになりたかったらしく……ちょうどこちら側におりておいでで」
「あの御方は全く……」
目が覚めた。
ゆっくりと、声のする方に顔を向ける。
けれど几帳に隠れて向こう側は見えない……それに私の視界はまだ不安定で頭がぼーっとしていて、考えがまるでまとまらない。
「すず子さま?」
緋色の袴が見えた。
「国芳さま!!すず子さまが」
滲んでいるような視界。
それでも豪華な刺繍の羽織りものが揺れているのが分かった。
視界と同じで耳もぼう、ぼう、と水の中にでもいるように声が遠くにあるようで上手く聞き取れない。
「意識がある内に桃の汁を飲ませた方が良い。玉乃井、匙を」
「すず子、体を引き揚げるぞ」
私の体を起こしているのは……三条さん?
「すず子さま、お口をあけて」
いや、それは……だめ。
たまちゃん、やめて……おねがい、だから。
わたしはそれを、口にできない。
「玉、そのまま匙を持っていろ」
「国芳さま、あまり強くされたらすず子さまが」
いや、やめて、こわい。
「暴れるなすず子、錯乱を起こしたか」
「人の子は気の巡りが悪くなると、確か」
「すず子さまごめんなさい……でも、飲まないと」
――本当に帰れなくなってしまうから。
お酒を飲まされた時みたいに無理やりにこじ開けられた唇、流し込まれた甘い汁に噎せかえる。
でもいま、たまちゃんは……なんて。
「もうひと口、ね……すず子さま、おねがいです。お体をわるくしては現世にもどれなくなってしまいます」
「玉、匙を貸せ」
「あっ、だめ、国芳さま、今のすず子さまから手をはなしたら」
嫌、離して!!
「国芳様!!この娘、猫王に爪を出すとはなんたる」
「構うな黒。良い……俺が悪い」
わたしの爪の先が、誰かを傷つけたなんて知る由もない。
朦朧とする意識の中、力尽きて再び眠ってしまったらしく……目が覚めた時には部屋は薄明るく、時刻が朝なのだと知る。
私の枕元に、柔らかくて温かい塊がある。
この毛の感じは、たまちゃんだ。
ひどく重く感じる掛布団から指先だけを出して銀糸の組紐が結ばれている首筋を撫でる。ずっと、そばにいてくれたのかもしれない。
ぴくり、と白い耳が動いた。
それからまるで垂直に飛び上がるように、毬のように跳ねた白い体。
ぽん、と言う軽い音と共に一瞬霞がかかって……次にはもう、緋色の袴姿のたまちゃんが膝をつき、私の顔を覗き込んでいた。
「すず子さま、意識が」
体が思うように動かず、返事すら出来なくて、それでもゆるく頷けば金茶の丸い瞳からぼろぼろと涙があふれて落ちて行く。泣かないで、とどうにか手を伸ばして細い膝に手を当てればその手にも、涙が落ちてくる。
「よかった、ほんとうに、よかった……すず子さま、お顔をふきましょう……」
それはたまちゃんの方では、と思っても人の姿になっているたまちゃんは用意してあったのかすぐに手ぬぐいを絞って、私の輪郭や頬を丁寧に拭う。その爽やかな心地よさにまた瞼を閉じてしまいそうになるのを私は堪える。
「今、国芳さまをよんできますね」
ひとしきり私の顔や首回りを拭いて、髪の毛も梳かして綺麗に横に流してくれたと思えばたまちゃんは行ってしまった。待って、と声が出なくて……引き留める指先の力も私にはまだなかった。