『逆、猫吸い譚 ~雄の三毛猫、三条国芳は今日もすず子の匂いを吸う~ 』


 とても静かな夜だった。
 あれからもたまちゃんは……多分、本当ならすっ飛んで来る筈だっただろうけれど黒光さんにしっかり引き留められたに違いない。それに黒光さんもたまちゃんとずっと居たかっただろうし。

 お風呂上りの私は国芳さんの寝所のお布団を二組、整える。どうやら私が普段、自分が使っている方のお風呂に行っている間に用意したらしいお酒の入っている瓶子(へいし)が猫足の膳台に用意されていた。

 けれど、その下に転がっている小さな木箱が妙に存在感を放っている。結局、買いに行けなかった私と国芳さんを隔てる物。人である私を愛してくれているからこその物。

「ん?」

 でも何かおかしい気がする。
 使いきってしまっていて中身は空っぽで、暫く開くことの無かったそれはいつもだったらこんなに枕元の近くに置いていない。
 もし今夜、そう言うことをするとしたって役目は無い筈なのに。

 掛布団を整えようとしていた私の疑問と沸き立つ好奇心。
 まだ国芳さんはお風呂から上がってきていないから……お布団の上に座って木箱を手にして開けば僅かに肩が跳ねてしまった。

「どうして……」

 いつの間に。
 私の目には明らかにしっかりと納められている現世のパッケージが十枚ほど。ここ最近の国芳さんはお披露目の為に忙しくしていたからお邪魔にならないように同じ時間を過ごさなかった日もあった。私が現世で黒い影に襲われそうになった時も着物姿のまま現世に現れたりして自在に行き来出来るのは知っていたけれど――国芳さんが外出していたなんて、知らない。
 知らなかったと言うか、私も彼に黙って「現世に来たついでだから、国芳さんが我慢し過ぎてもいけないから」と自分に言い聞かせてコレを買いに行こうとしていたけれどそれは何と言うか……ああ、駄目だ。

「すず子」
「ひゃん!!」

 取り落としそうになる木箱と「たまには驚かせてやろうかと思ったんだが」と私の飛び上がってしまった反応に「どうしたんだ」と覗き込んでしまった人。

「あー……」

 眉根を寄せて「見つかったか」と言う声に私はどうしたら良いのか分からなくてとりあえず蓋を閉じる。
 心臓がどきどきして、抑えられそうにない。

「まあなんだ……とりあえず、飲むか」

 黙って頷く。
 隣に腰を下ろした国芳さんが自然に私の手から木箱を取り上げて、それでもしっかりと枕元に置いてしまう事にもう何も言えない。

「時間を作って現世に降りていたんだが、流石にお前を誘う訳にも行かなかったからな」

 飲む前から頬が真っ赤だぞ、と笑ってくれるいつもの国芳さんの軽口に今は助けられる。そうじゃなきゃ私は恥ずかしくて恥ずかしくてたまらない。
 膳台を引き寄せた国芳さんがお酒の入っている瓶子を手酌してしまいそうになったからそんな恥ずかしさを取り繕うように私が先に手にして「どうぞ」と盃を持たせる。

 注ぐお酒の中身がいつもと違っていた。
 御神酒の清酒とも、宮司さんが国芳さん用に分けてくれていたヤマモモ酒でもない、なんだか妙に気が惹かれるような香りに思わず手にしたままの瓶子の注ぎ口の匂いを確かめる。

「飲んでみるか?」

 国芳さんが何も教えてくれずににやりと笑う時は絶対に何か私にとって不利益と言うか、悪戯を仕掛けてきている時だ。

「祝い酒で出ていた物なんだが」

 今度は私に盃を持たせてくれて少しだけ、注がれる。

「じゃあたまちゃんが美味しくて、と黒光さんが言っていたのはこのお酒のことだったんですか」
「ああ、まさか玉がウワバミだったとはな。今まで飲みたいとも言わなかったから飲ませた事は無かったんだが」

 盃に唇を寄せて、舐める。
 大体ここでは水割りとかそう言う概念が無いのかそのまま、ストレートが常だったので私も唇を濡らす程度に最初は少しだけ頂く。

「薬膳酒みたいな……でも、お砂糖と蜂蜜が濃いからそこまで癖も感じないし」

 とくん、と心臓が高鳴る。

「あ、れ……」

 おかしいな、と思っていれば目を細めた国芳さんが「その酒の元になっているのは猫の好きな物だ」と言う。

「これって“またたび”のお酒、ですか」
「ああ、しかも神の庭に生えている特級品のまたたびの実で漬けられた酒だ。神も気に入りで祝い事やらで猫の一族からの振る舞い酒として出している。一時的に酔いはするが酷い二日酔いはしない」

 これ、どことなく国芳さんの匂いと似ている。
 だからかな、ひと口舐めただけなのに体が熱いと言うか、火を灯されたように芯から焚き付けられるような、それでいてふわふわとした感覚にお酒自体の度数が高いのかな、とあれこれ思うけれどそれとも違う。

 とくん、とくん、と自分の鼓動が高鳴っているのが分かる。

(これは……気持ちいい?)

 そう考えてしまえばそうとしか思えなくなる。
 本当に唇を濡らす程度のお酒、現世に居た時もビールとか缶チューハイ程度なら飲んでいたけれどこんな感覚になった事は今まで一度もない。それに二日酔いが怖くて飲み過ぎた事もなかった。

「あの玉が神の庭にいる雄猫たちからもあんなに人気があったとは俺も知り及ばなかったが……すず子?どうした、酒が合わなかったか」
「違う……んですけど、あの」

 遠慮は無しだ、と言う国芳さん。
 私は手にしていた盃を膳台に置いて「私、猫になっちゃったんでしょうか」と問う。

「今、とても……国芳さんに撫でて貰いたいんです」

 あなたに甘えたい。
 すりすり、と茶白さんやキジトラさんが私にする事を今は私が国芳さんにしたい。

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