『逆、猫吸い譚 ~雄の三毛猫、三条国芳は今日もすず子の匂いを吸う~ 』


 布団の中で横になったまま、枕元に座した人を黙って見上げる。
 三角の耳は左右にへたり、美しい美貌には影が差していた。

「俺はお前に謝らなくてはならない」

 三条さんは私の枕元に置いてある……さっきまでたまちゃんが飲ませてくれていた桃の果汁の入った器を見て、眉根を寄せる。
 今は果汁だけではなく、すりつぶした果肉も一緒だった。

 私はもう、先にたまちゃんから話を聞いていた。
 それは少し前、三条さんを呼びに飛び出していったたまちゃんが一人ですごすごと戻って来てしまった時の事。
 しょげてしまっている白い耳が「国芳さまが、すず子さまにお会いになる前にたまからはなしをした方がよい、と」と呟くように言って……私の体の事、食事の事について教えてくれた。

 そう、三条さんは私の事を騙していた。

 私がこちらで口にしたのは、元は私のいた場所の……人の手によって神様にお供えされた御供物のお茶、そして御神酒(おみき)だった。それらを人間である私が口にした所でなんら問題はなく、むしろそれらから俗世の気力を貰わなければこちらで生活をするのに困る、とたまちゃんは言っていた。

 つまりお茶の三日、御神酒の一週間のくだりは三条さんが作った作り話。

 私が空腹を覚えなかったのは確かにこの場所のせいではあったらしく、このまま何も食べずにいれば私の人間としての肉体は痛みもなく静かに光の粒になって滅んでしまうらしい。

 つまり倒れた理由はただの腹ぺこ、に近いものだった。
 神域(しんいき)と言う特殊な場所だから人間の私でもごく少量の食事で肉体と魂の維持は出来るらしいけれどーーいきなり絶食をしたせいで体が慣れず、意識が遠退いてしまった。

 ここはあまりにも“穢れ”の無い場所なのだと言う。
 だから、私のいた現世(うつしよ)の――俗世の物を口にしなければ私の肉体は時間と共に浄化されながら消滅して、魂だけの存在になる、と。

 まだ頭が回らず、喉も渇きすぎたせいで声も出しにくくてたまちゃんの話に頷くばかりで、それでも私は食べ物を口にしても良いのだと教えて貰った。

「からかってやるつもりだった……」

 度が過ぎている。
 私の人間としての生き死にが懸っていると言うのに。
 神様の御使い、しかも猫の御使いの全てを率いていると言う立場のある人?猫?が、安易に人をからかうだなんて信じられない。

「お前の匂いは俺を惑わせる」

 何をいまさら、そんな言い訳を。
 ふい、とゆっくり顔を背けてしまえば慌てたように三条さんは「すまない」ともう一度、謝った。
 人間が二日、急に何も飲み食いをしなくなるとどうなるか、それくらい想像すれば幾らなんだって分かるはず。

「ああでも言っておかないと、逃げられてしまうと思った。それにお前は少し、知識があると……人の世の物ではない物を口にすると現世に帰れなくなる。あれはこの神域の事を指しているのではない。あれは“黄泉の国”での話だ。この場所では誰も腹は減らないし、喉も乾かない……なあ、玉」

 三条さんは水を汲み直しに行って戻ってきたたまちゃんを見る。
 話をしていた内容がその白い耳に届いていたのか、たまちゃんは「毛艶もよくなるんですよ。私、本当はまっしろだったんです」と言う。

 きっとたまちゃんは……飢えていた。今は滑らかで真っ白な毛すら汚れていたのだと思う。それで、三条さんに拾われてこの場所で生活をするようになってその輝きを取り戻したのかもしれない。

「玉も魂だけの存在になり、この神域より先にある神の庭たる常世(とこよ)へ行く筈だったんだが手先が器用な子でな……俺のいるこの猫寝殿(びょうしんでん)の管理を“あいつ”と一緒に任せている」

 廊下の方から大きな足音がする。

「お待ちください!!そちらには現世の娘が!!」

 小さな栗色の影が几帳の中に飛び込んで、横になっている私の枕元へ見事、着地する。驚いて少し身を引いてしまえば慌てたようにたまちゃんが正座をし、頭を深く下げてしまった。
 そして三条さんも浅く、小さな栗色に一礼をする。

「かげんはどうじゃ、くによしのつがい。ああしゃべらなくともよい。うん、よきにおい、くによしのにおいとよくあう。どうだ、ぶどうをたべぬか」

 ころり、と私の枕元に転がる一粒の大きな葡萄。
 私の手のひらよりも小さな体なのに鈴の音のような高い声がしっかりと、頭の中に直接響くように聞こえる。

「お止めください、神!!」

 黒い着物の人が凄い足音を立てて几帳の中に入って来る。

「煩いぞ、黒。お前は昔からそうやってどたどたと」
「国芳様もお止めに、ああ神」

 神、さま?
 今私の目の前で葡萄を転がしてくれた“ねずみさん”が。
 黒く、つぶらな瞳と目が合う。

「うん、うん。わたしはねずみさんじゃ。かみさまではない。でもそのぶどうはうまいからおまえもたべるとよい」

 ととと、と私の布団の上を駆けて行ってしまう栗色の小さな野ねずみ。
 それをまた追いかけて行く黒い着物の人――確かに今、その人は“神”と事を呼んだけれど野ねずみさんご本人は神ではない、とおっしゃった。

「今の小さな鼠が俺達が仕えている神だ」

 そう言って三条さんは私の枕元に転がったままの一粒の葡萄を手に取る。

「また御供物を……仰っていただければお持ちしますと前にもおつたえしたのですが」
「まあ神と言っても今のはその分身、のような物だ。時々、我々の場所まで降りて来ては供物をちょろまかして行く」

 たまちゃんが三条さんの膝に紙を……二つに畳まれていた懐紙を開いて敷く。
 三条さんは神様が置いて行った葡萄の皮を剥いて実を半分に割くと中の種も抜いて……敷かれた懐紙は皮や種、溢れてしまった果汁を受け止めていた。私はそんな手元の様子を眺めているばかり。

「食べると良い。神の触れた物はお前の糧になる。ましてやこんな直接的な施しなど滅多に無いぞ」

 口を開けろ、と言われて今度こそ私は素直に薄く口を開ける。

「良い子だ」

 つぷり、と瑞々しく柔らかい果肉が私の唇を濡らす。
 甘くて酸っぱくて、いい香り。
 噎せてしまわないようにゆっくりと飲み込めば不思議とお腹の底から温かい……まるで丁度良い湯加減のお風呂に入っているような、じんわりと体が温かなものに包み込まれる感覚にまた、瞼が重くなってくる。

 三条さんが私の唇を指の先で拭う。
 その指の腹はとても柔らかくて、温かくて。

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