ぼくらは群青を探している
 これも今になって思えばという話なのだけれど、結局その看護師は、二年不倫しながら、いつまでも母と離婚しない父に(ごう)を煮やし、同時に母に嫉妬したのだろう。どうにかして自分のほうが上だと母に威張(いば)り散らしたかった。母は父の妻であった、しかしその妻という座は、母が女医だからこそ、医者一族の雲雀家の嫁として充分なステータスを持っているからこそ与えられているものに過ぎず、女としての価値は自分のほうが上だ──彼女は、母にそう誇示(こじ)してみせたかったのだろう。そうでなければ、いくら酔っぱらったといったって、わざわざ結婚記念日に──どうせ父から聞いていただろうに──電話をかけてくるなんて、それでもって決定的な不倫の証拠となるセリフを吐くなんて、よほどの馬鹿でなければしないだろう。

 そして、不倫をしながら、テーブルの上に携帯電話を置いていく父も、そのよほどの馬鹿だ。いくら酔っぱらっていたからって、不倫の証拠を母の目の前に置いていくなんて、不倫を見つけてくれと言っているようなものだ。いくら二年間バレなかったからって、自分が全く疑われていないからといって、それはいくらなんでも詰めが甘すぎだ。もしかしてバレたかったんですか? なんて嫌味のひとつでも言ってやりたくなったけれど、結局母との離婚後もその看護師と結婚することはしなかったから、やっぱり詰めが甘すぎたのだと思う。

 その夜中、父母はごちゃごちゃと話していた。話の内容は難しくて、ところどころ弁護士がどうとか、相手の代理がどうとか、名誉(めいよ)毀損(きそん)だとか、テレビでもなかなか聞かないような言葉ばかりが聞こえていて、あまり理解ができなかった。

 暫くして、コン、と固くて軽い何かを置く音が響いた。それがもしかしたら印鑑の音だったのかもしれないと思ったのはベッドに戻ってからだ。


「せめて数学のできる不倫相手を選んでほしかったわ。話が全然伝わらなくて、困ってるから」


 ベッドに戻った後も、その夜は寝ることができなかった。ガタガタと隣の母の部屋で音が聞こえていた。でも、まるで出て行く準備は済んでいたかのように、数十分後にはスーツケースの鍵を閉める音が聞こえてきた。俺はそれをベッドの中で聞いていた。

 母と話したのは、次の日になってからだった。

 父のいないダイニングテーブルで、母は、俺と真紀(いもうと)を前に、テーブルの上で手を組んで、ゆっくりと口を開いた。


「お父さんと、離婚することになったの」「来週までに、お母さんは荷物を片付けて、岡山のおばあちゃんの家に帰るから」「そのまま、おばあちゃんの家で暮らすから。もうお父さんとお母さんが一緒にいることはないと思う」「真紀(まき)は、お母さんと一緒に暮らそうね」……母が話したのは、そんなところだった。


「……侑生」


 母は、ゆっくりと俺に向き直った。俺にそっくりだという目は、ゆっくりと閉じて開いた。口を開いた瞬間、その双眸(そうぼう)は申し訳なさそうに揺れた。


「……ごめんね」


 父から離婚について聞かされたのは、その週の土曜日、昼間だった。離婚について聞かされたといっても、離婚した、以上のことは言われなかった。もともと、父との会話は多いほうではなかった。後日、父の書斎で見つけた「(さか)(づか)法律事務所」と書かれた分厚い封筒とその中に入っていた書類とを見て、詳細を知った。不倫が露呈したきっかけなんかも、その書類を読んで知ったことだった。


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