消えた三日月を探して
「まぁ、あれだ。お前が自分から踏み込んでいかないと、久遠のヤツも空気読みすぎて、今以上に互いの距離が空いていくぞ」

 そう背中をポンと軽く叩いて、彼は「下で待ってる」と言い残し私から離れた。「待ってる」なんて言われても、それらしい約束なんてあったけ? と記憶の中の予定を探る。何も思い浮かばず考えることをやめた脳内の回路は、いとも簡単に思考を遮断する。元気づけてくれたのか、戸惑わされただけなのか⋯⋯疑問符ばかりが頭を駆け巡るが、多少なりとも気分が晴れたのは事実だった。

 消えた背中の温もりを少し名残惜しく感じながら大きくため息ひとつ、彼の持って来てくれたホットコーヒーをちびちびと啜る。普段は甘めのコーヒーを好む私だが、「糖分取り過ぎだ」とお節介をやく彼にブラックを渡された。

「何そんなに渋い顔してんだよ?」と突然聞こえた声に悲鳴を上げる。あまりに驚きすぎて、コーヒーをこぼすところだった。

「聡司にブラックを押し付けられた」

「お前、甘党だからな」

 笑いながら似合わないと取り上げられたカップは彼の口元へ。「上手い」と返されたそれを側のテーブルに置き、「脅かさないでよ」と久遠の胸を軽く押し返した。

 服にシミが付いては嫌だと、コーヒーが零れていないか思わず確認。

「で、どうしたの? 聡司ならさっきスタジオに降りていったよ?」

「あぁ、階段ですれ違った」

 ならば何か他の用事かと尋ねれば、彼は彼で「俺の噂してたろ?」と急に何かを探るように聞き返される。

「普通にしてればいいことなのに、お前がどこか俺を避けてるから、こっちからも話しかけづらくなってさ。俺が言うのもなんだけど、もういい加減いいんじゃない?」

 気を使うのをやめてくれと、彼を牽制する私にため息を吐く。すると突然私の手を引く久遠は、階下にある撮影スタジオまで駆け下りていった。

「何する気?」と慌てる私に久遠も聡司も何も言わず、ただ二人でアイコンタクトを図っている。半ば引きずられるように連れてこられた私は、撮影スペースの脇にある間仕切りの向こうに無理やり押し込められ、そこに用意している着物に着替えるよう命じられた。

「すみません、今度は彼女をお願いします」

 目の前にいたのは、この度ヘアメイクとして雇われた女性スタッフ二人。

「そいつ、着付けは自分でやるんで、ヘアメイクだけ頼みます」と言う久遠に、「はぁ?」と間仕切りから顔を出す。どういうことかと問う間もなく、了承の声を上げる彼女たちに鏡の前へと座らされた。

 すると向こう側では「久遠もな」と声をかける聡司がいて、既に用意されてあったらしい男物の着物を本人に手渡しているようだった。
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