消えた三日月を探して
「無理は言わないから」────そう、姉の口から聞いたのは今朝のこと。だが、その舌の根も乾かぬうちに言い渡されたのは、明らかな無理難題だった。

 いきなりの呼び出しは要件短く、とにかく店に来いとの連絡。雇い主からとなれば行かないわけにはいかず、到着するなり煌々としている店内へと駆け込んだ。

「ただいま」と、入り口から声を張り上げる。反響する自身の声にようやく聞こえた反応は、やっと帰って来たと奥から姿を現した姉のもの。気だるさを隠しもせず用向きを確認する私に、不平不満はごもっともだと抱えていた二枚のたとう紙を座敷にそっと置いた。

「それで、私は何をすればいいの?」

「早い話がお直しなんだけど⋯⋯。いやさぁ、お市の言いたいことはよーく分かってるのよ、これでも。だけど、こんな無茶頼めるのはあなただけなんだもん。無理を言ってるのも重々承知してるんだけど、どうしてもって依頼されて⋯⋯」

 ご贔屓さんだからどうしても断れなかったと本気で困っている様子だった。

「あなたしかいない」と懇願する姉に、「はいはい」とその場に荷物を置く。

「早速これなんだけど⋯⋯襦袢と着物。裄と身丈直しを、明日までに」

「────⋯⋯はぁあ?」

「寸法は『出せるだけめいっぱい出して下さい』とのこと」

「ねぇ、ちょっと待ってよ。身丈直しって結構大変なんだよ? 仕立てもそこそこ詳しいアナタが知らないわけないですよね? このままじゃ、徹夜になっちゃうんだけど」

 深いため息を吐き、虚空を見つめ時間を計算。身丈直しがあるならば、今から必死になって急いでも朝までに仕上がるかどうか微妙なところ。ただ今の時刻を確認しながら、やはり徹夜は確定だと今夜の睡眠を諦めた。

 着物の仕立てというものは、実際やってみて分かったことだが、一から仕立て直すよりも部分的に糸を解いて縫い直す方が意外と大変だし面倒だ。全てが手縫いである和裁においてなかなか手間のかかる作業な上、裄直しはともかく、身丈直しは糸を解くのも縫い直すのもとにかく骨が折れる。着物の上半分をほぼほぼ解かなくてはならず、私としてはお直しの中でもなかなか苦手な作業だった。

 それを今からやれとは、美咲も容赦ない。

「厳しいな⋯⋯」と呟きながら、自分の力量と時間を天秤にかけ頭を抱える。早々引き受けたことを後悔し始めた矢先、「キャンセルは絶対無しよ」と滑り込んできた言葉に苦笑い。私の胸中を見透かしたよう発せられたダメ押しの「お願い!」に、もう引き返せないのだと諦めた。

 さて、どうしよう? 何から始めようかと、準備に取り掛かろうとした時、「はい、そうですね⋯⋯」と言う淡々とした低い声が微かに耳に入ってくる。奥からスっと姿を現したのは、スマホを手にした長身のビジネスマン風の男性だった。
< 29 / 122 >

この作品をシェア

pagetop